もう常に

杖をついて歩いても、

普通な歳になったのだ。

良い杖もあるし。

2025年 4月19日

暖かい乾いた空気。枝の先が少し動くのが見える風。


昨日、本当にしばらくぶりに仙台に出た。展覧会を見、駅前の本屋を回り、帰宅。展覧会は、@SARP。駅から、全て徒歩。1万4千歩プラス。


SARPに行く時は何回行っても、何故か道を間違う。火星の庭の向かいから北に曲がるのはまちがわないのに、その先があとで考えると何故そう行くのか分からないのだが、あっちこっちで曲がり、何故か素直に辿り着けない。今回も、早坂輪業本店が出て来て、これはすごく間違ってると自覚し、入り口まで戻った。

ううむ、そうしたら、すぐそこだった。こういうのをつい楽しんでいる自分を自覚する。これがいけないな。何回も、案内状の地図を見たのだが、何故か自分の見たい所は、その地図からは少し外れている。この辺りは、もう目を瞑っても分かるはずなのに、これが、歳をとって来たということなのだろう。


若い人がする視覚表現は極力何も考えずに対面する様にする。そうして一回りしてから、一枚ずつ読んでいく。そんなにたくさんの表現を見ているわけではないが、自分以外の人の表現を読むのは、大変だ。読むからだろうか。でも、まあ、それも他人の表現を見る楽しみだ。当たり前か。他人の表現を見ながら、自分の表現に思いをはせる。枝の先を軽く揺るがす様な表現。問題は、こっち側の揺るぎ様な訳だから、揺らいでいる枝の自覚は、その枝にしか分からない。いやはや、嫌な客だ。なんてことを思いながら歩く。


今日も、そういう意味では、良い天気だ。