そこにあるものは
絶えず変化していく。

だから、
両方から考えるを意識する。


2017年 4月29日  
乾いた暖かい空気。風弱く晴れ。

昨日、多賀城の歴史博物館に、ラスコー展を見に行った。シニアの入場料で買ったチケットを見ると、本来の名称は「ザ ケイヴ ペインティング オブ ジ アイス エイジ」。ジーン アウル 著「大地の子 エイラ」の愛読者としては、本来の名称の方がより見える世界が広がると思うのだが、日本名は「世界遺産ラスコー展 クロマニョン人が残した洞窟壁画」。ううむ。

名前がそう着くと、そこにある全体も、その名前を補強するがのごとくになってしまう。展示物の間にある解説。展示物を理解させるための様々な道具が目ざす方向。展示物の間にいて話しかけてくる解説係の人たち。それらが、一斉に向かっている方向。僕たちの国では、本当はなんていう名前なんだろうと確認する人すらあまりいない。この展覧会も、本当の名前で言いたかったことと、日本の誰かがつけた名前の間のズレが、僕には残念だった。

あのさあ、この絵が描かれるより前、世界には絵画という表現はなかったんだぜ! 描いてあるということ自体!が、見るべきところ!  世界中の人間の中で、当時としては相当優秀なその人が、今の僕たちの3歳ぐらいの意識だった時代。やってる本人は全く気付かないままに「意識するという自覚」の全てが始まった時代。

目に見えているものを描いてみるという意識。上手い!とか凄い!とか言う前に、そもそも見ているものを見えるものにしてしまおうという意識。意識的に描くのは地球上では今の所我々だけで、描くことで意識され、そのことによって広がり確定された我々の世界観は、ついに、今のここまで来てしまった。その最初のところは、こんな風だったのだというのをこそ、今だからこそ、見たい。

もう1日経って、今日は終日、パレオを着てぼんやりと過ごしていたのだが、それでも、書き始めると、とりとめなく興奮してくる。
ものを見る時に我を忘れず、知らずに見せられている時には誰かが見たものを見ているのだということを意識できるように生きていきたい。まず、この両方とも普段全くできていないことを自覚したい。

ついこの前、美術鑑賞をめぐるテレヴィジョンの収録があって呼び出され、しばらくぶりで美術館に行った。その内容はとても大切なもので、僕など、ううむ、報道はもうここまできたのかと、感心するばかりだった。ただ、良い番組であればあるほど、そこに見える映像は、その番組のディレクターの「作品」なわけで、そこに写っているものはすべて、(美術作品風に言えば)ディレクターによって計算されそこにそう置かれたた絵の具。僕も、そこにそうあるかのごとくにいる一捻りされた絵の具としてそこにいた。公務員から足を洗ってまだ1ヶ月も経っていないのに、僕にはすごくいずかった。私は、まだ、ものを見たいのか? 意識的な見る作業を。まず体操だな。