今週始め、美術館に出たら高松城の絵はがきが来ていた。僕の友達でお城の絵はがきくれる人はあまりいない。差出人は、O崎君だ。ええと、誰だO崎って?彼はO寺君だった。名字が変わっていたのだ。僕の記憶にあるのはまだチビだった少年のO寺なのだが、今はもうすっかり大人になっていて、四国高松で、歯医者さんをやっているという。いやはや、嬉しいねえ、こういうはがきは。
彼が、友人のO橋と美術館に来ていたのは、川向の小学校の5年生だった頃からで、だいぶ頻繁に、まだ始まったばかりですいていた美術館の創作室で、様々、本当に様々な工作(粘土の団子作りから廃材の家ー中は漫画図書館ーから、本当に動く小さいバイクまで)を、僕と一緒に楽しんだ仲間だった。アアそうだ、夏休みに、本物の丸木舟を彫ったのも、君たちではなかっただろうか。出来上がったそれをみんなで北庭の池に運んで行って乗ってすぐ転覆したので、調べて、竹でアウトリガーを付けた。あの頃、毎日凄く面白かったねえ。
実は最近、ここから先の文章が続かない。去年度まで、僕は、美術館の教育普及部のひとりのスタッフで、ほぼ全面的に実践家で過ごして来た。今年度から、僕の肩書きは管理職の末端になり、未だうまく言えないのだが、どうも守備範囲が少しだけだが、しかしこれまであまり注意していなかった方向に変わって来ているようなのだ。
昔、長い間美術教師をして来た組合系の先生が美術館に教育部長として回って来て、それまで彼は決して管理職になんかならないぞと強く考えて来ていたのに、その当時の美術館の上司と話をして宗旨を変え、ここから出るときには校長先生として移動し、その後なかなか善い学校を作っていった。自分の想いを社会化するために、今の世の中でできることをリアルに考える。もう先は見えているのだし。
長い間、管理職になるというのは、僕の年代では様々ネガティブな方向のみ語られることが、周りの美術家の仲間では多かった。でも、そういうことがあった辺りから、意識的にみんなの代表になって公共での仕事を(しかも教育について)考えることを僕は始めてみた。そして年齢が来て、順番にそういう立場で様々な決定をしなければいけなくなる。実際にやってみると、僕には本当にそういう経験が足りない(または全くない)ということに気付かされる。そしてそんなことは言ってはいられないことが多い。
話し合いの中で使われる一つ一つの言葉が持つ意味をこれまた一つ一つ調整していく必要。その上で、ある事柄をどっちの方向に決めて行くのかを、みんなで、不公平にならないように決めて行く。やってみると、みんなに公平になんて決していくはずはないことが明るみに出てくることが多いのだが、では、そういうことはわかった上で、どっちに決めるのか。いやはや、なかなか大変な毎日だ。でも、こういうことをこういうふうに書くことができる程には、世の中は変わって来たのだということも実感できる毎日。ほんの数年前までなら、僕が今感じている事柄は、もっとずうっと前の段階でしないで済ませていたことも多いわけだから。
そんな毎日の中に、突然、20数年前の小学生がはがきをくれたりすると、僕はふと我に返って、今の自分はあの時とどのように変わり、どのように同じでいようとしているのかを無理矢理点検できてありがたい。様々なストレスの中で、僕は、まだ変わらずに、なにかを続けて来ているだろうか。悩みつつ、考え続けようと思う。