’07 01 27 天気予報では雨が降るらしい、しかし快晴の暖かい朝。

「テレビがデジタルになると、何が変わるの?」という質問があって、ふと考えてみたら、実は、結構怖いことになるのではないかとなったので、書き留めておきたい。

 家を新しくしたとき、良い機会だったので「テレヴィジョンはしばらく無し」と言うことにしてみた。
 でも、今や、映像で情報を得られないと、日常生活が真面目に危険という事態が起こるということが間もなく判明したのと、なんのことはない、見たい番組が(テレヴ受像器が来たので急に)様々でてきて、やっぱりなにかテレヴィジョンのような物を一つ買うことにした。で、いろいろ調べたり、見に行って聞いたりして、エイゾウという会社のフォリスというTVのような形をしたものを買った。それには地上デジタル放送の受信機も組み込まれていた。だから、すでに私の家には地上デジタル放送受信機がある。で、何が変わるの?何か変わった?なのである。
 さて、私は携帯電話を持っている。まだ、ソフトバンクがJフォーンという名前だった頃に、古い友だちがその代理店かなんかを始めて、彼の薦めで面白半分で安く手に入れたのが始まりだった。その後、脳内出血を起こしていつ緊急事態連絡状況が起こるか分からないと言うことになって「いつも必ず持っていなさいよ」になった。だから結長い間携帯電話保持者をやっているのだが、その間機種変更をしたのは、Jフォーンからヴォーダフォンになったとき(契約変更のついで)と、入院していたとき便所に落としてしまって再起不能になったときの2回だけで、最近「齋さんの携帯なんかかっこ良いっすね」と、時々若い人に言われることがあるけれど、なに、単に古いスタイルだということだけだったりする。私の携帯は、電話と、時々メールのためだけに使われている。あ、最近少し写真機。
 私はこのブログで、コンピュータを巡る私のどたばた状況を公開してきたが、ああいう風に電脳とつきあっている私は、携帯とは電話としてつきあう。というより、としてしかつきあえない(が正しい言い方かな)。ついでに言えば、私の家のNTTから(いまだに、確か)借りているダイアル式黒電話も、いつの間にか、黒い本体に幾つかの緑色の極小点滅電球のついた小さな箱を経由して電話線がつながっていた。その箱からは何本かの枝分かれ線が出ていて、今これを書いている電脳や、何とそのフォリスTVにもつながっていたりする。でも、もちろん、私の電脳は、そのほとんどがワードプロセッサとして機能し、フォリスはテレヴィジョンである。携帯電話が電話である(でしかない)という生活は、地上デジタルは、写りの良い(確かにまるで違うものだと思うくらい画像はきれいなのだが)テレヴィである、という生活につながっている。
 個人用電脳を筆頭として、携帯電話やテレヴィジョンや普通の電話や洗濯機やお風呂や冷蔵庫や台所周りやその他諸々ほとんど全ての生活用品や、そして自動車に至る、新しい生活用品を縦横無尽に使いこなした生活を送っている人から見たら、この状況は「なんともなあ(溜息)」の生活であるのだろう。
 電脳が関わって築き上げてくれた、豊かで便利(と言われているよう)な今の生活は、しかし、僕には、過剰に効率的で、抜いてはいけないところまで手抜きが可能になった生活、のように見える。効率よく、機械でできるところは機械にしてもらう生活は、全然やぶさかではないけれど、過剰って言うのと、手をかけなければいけないことっていうあたりには、注意しておきたいと、僕は強く思う。楽して速くやっては「いけない部分」が(動物としての)私たちの生活にはある。電脳系日用品がすべてそうだとは言わないが、何かどうも相当大切な部分が、豊かで便利になったおかげで、既に消えてしまっているように、美術館に来る小さい子供達と一緒に、木ぎれからクワガタムシを作る活動をしていたりすると思えてくる。
 クワガタムシ(外国にいる、紫なんとかという、大きなクワガタなのだそうだ)の絵を、彼は描いてきた。それを本物みたいに作る。まず美術館のスタッフにお願いして、彼が描いてきた小さい鉛筆画を彼の言う言うところの「ほんとはすごく大きいんだよ」の大きさまで拡大コピーをしてもらう。大きくなると、なんだか、本物っぽくなくなることが多いけれど、本当の大きさになると、こんなふうに見えるのだ。さて、その一方で、なんか胴体と足になる物を探す。そのへんをうろついて、胴体や足になりそうな物を拾ってくる。昔の子供(僕のことね)にとっては、胸躍る活動時間だ。「そのへんから、拾ってくる」。みんなはどう?拡大コピーを使う(のにためらいはないがしかし、今述べたような電脳生活を送っている)僕は、でも、そのへんをうろうろしながら、なんか面白い物を拾ってくるのが(血沸き胸躍るほど)大好きだ。今回来た子供達は、ゲームだけしていれば文句ない子供達では、全くなかったのだがしかし、「何で作るの?」という問に対する、僕の「何かそのへん探しに行くか」という答えに、ポカンとした顔を見せた。何を使って、どのように造るかは、既に決まっていて、それは大人が教えてくれる(のを待っていればいい)ものなのだ。
 大げさかもしれないことは重々承知の上で、しかし、デジタルテレヴィを、無意識に使い始めると言うことは、子供をこのような生活に導くことに大きく回り道だがつながっていないか。つながっていないと良いのだが。