2007年 1月 8日 雲が異様にかっこいい、寒い日。

 クリスマスのあたりから基本的には休みだったのに、やっと今日あたりブログを更新している。公開すべきことは、いくつかある。

 隣の達(とおる)君が12月25日に死んだ。53才だった。くも膜下出血で、僕にとっては突然だった。葬式で、泣きながら弔辞を読んだ友人代表の話を聞くにつけ、この年代でこの状況は、過労死だとしか言いようがない。でも、なんだか、死ぬぐらい一生懸命仕事してたんだなあ、と様々な思いを込めて感心した。小学生だった頃、僕より少し下の学年だったけれど僕の弟たちと同年代だったから、いろいろ遊んだ思い出がある。人は、突然に必ず死ぬものなんだと言うことはここ数年で、重々身にしみているが、しかし、こういう風にも起こるのだなあ、と再び心に来る。26,27日はお葬式。町内会の隣組だから、僕も町内の人たちと一緒に、参列者の受付などする。こういう風に、葬式をするのだなあ、されてしまうのだなあと、しみじみ心に来る。
 でも、28日は、ダークスーツと白いワイシャツをクリーニングに出した後、いつもの美術系の仲間と、毎年恒例の「たき火」。@阿武隈川河口の砂州。昼から、みんなで流木を集めて大きな高いオブジェを造り、4時半、暗くなったところで点火。8時前には燃え尽きて終了。僕は今年は(も?)意識的にあんまり働かずに、凧揚げなんかしていた。天気はすごく良くて、気持ちよかった。そんなに寒くなかったし。
 29日。今年の年末年始の最大のイヴェント「お母さん、沖縄で正月を過ごす作戦」開始。沖縄市に住む上の娘が画策して、かみさんを一人、沖縄に呼んでくれた。彼女がひとりで飛行機に乗るのは、僕を追いかけてニュウヨークに来たとき以来のはずで、緊張するも、今は安心楽々システムとか言うものがあって、飛行機会社のお姉さんたちがこっちの手からあっちの手までとぎれなく面倒を見てくれるのだった。
 で、29日から1月の3日まで、認知症の進んだ親父だけと一緒に、毎日を過ごす経験をした。12月中は、毎日掃除をし、正月に入ってからは、毎日餅を食って、テレビで駅伝とアメリカンフットボールを見て過ごした。僕の家は竹駒神社の10軒程隣なので、天気の良い年の正月は家の外に出られない。人でいっぱいになるのだ。この自分の父と一緒に過ごす経験は、なかなか深くおもしろいものだった。僕も、明らかにこうなるのだ。なんか好きなことを、もっと、ちゃんと、しておきたいなと、強く思った。このことは機会があったら、少しずつ又別に書こうと思う。でも、好きなことって、何のことだろう。ちゃんとって、どうすることなんだろう。
 3日に彼女が帰ってきたので、夕飯の支度とか、少ししてもらえるようになっって時間が出来た。でも、熱心な人たちは至る所にいて、5日に、小学校の先生たちの「図工の授業法」自主研修会に呼ばれていたのだ。子供たちのいない学校の図工室で、半ズボンにTシャツで粘土作りの講習。なぜか図工室は、北窓からの採光が描写に良いとかで、校舎の北側にあるのだ。水、凍るってば。いやはやよくやるよ。だが一方で、こんなことが出来る世の中になっては来ているのだと、深く感激。20世紀中には出来なかった。
 義務教育の図工美術の時間は表面上さんざんなことになってきてはいるが、そのためにかえって、では、何をどうすれば良いんだろうと、みんな真剣になってきているのだ。「造形でなく美術直接」という意識は、しかし、これまでの教授法では伝えにくい概念と活動なので、しばらく時間はかかるだろうが、誰かうまい方法をひねり出してくれるまで、しつこく話し、しつこく実践を見せていくしかない。
 しかし、相変わらずなんだかわかったようなことをつらつら書いているなあ。あんまり心配とかしないで、やりたいことを楽しくやることが大切なのかなあ。それが、実践につながるのかなあ。なんかそのあたりで、今年は、行きそうだな。