03月19日 きれいな雲が丸く浮いている、風の強い、晴の一日

 春のお彼岸なので、下の娘が、生まれて半年を過ぎたばかりの孫と一緒に家に来て、なんとなく花を買ったり、餅をそろえたりの支度を手伝ってくれた。
 脳内出血を起こした2003年の秋、僕はぐんぐん回復して、11月2日、両親と一緒に海岸に遊びに行った。すごく天気の良い風の強く吹く日だった。その夜、実家の近くに住んでいる弟から電話が来た。母が、倒れて、今救急車で運んだという連絡だった。とりあえず、運び込まれた総合病院に駆けつけると、弟達はすでに来ていて、そろって、医者に話を聞いた。


 僕と同じ脳内出血だった。でも、彼女のは出所がすごく悪くて、脳幹。レントゲン写真で見ると、きれいな頭蓋骨が、背骨につながっているちょうどそこの所に、ほんの少し、真っ黒いシミが写っていた。これだけで、人間の意識は切れてしまうのだった。外からの刺激に、何の反応も、返ってこなくなっていた。死んではいないが、ううむ、この出所と、出方だと、意識はもう、戻らないでしょうねえ、歳もとっていますし。という淡々とした医者の話を、弟達と静かに聞いた。
 70歳を過ぎたあたりから、真言宗のお寺に行き、いろいろな形でのお遍路などに参加し始めていた母は、死ぬときのことを、様々僕たちに話していたので、パイプなどを様々つないで、何とか延命を、ということはしないでいい、ということを、僕たちは、医者に話した。でも、その直後舌が落ちて息が止まりそうになって、医者は条件反射的に、のどにパイプを挿入し、気道確保をした。そうなれば、次は、栄養を補給して、排泄するパイプが必要になり、こういうふうにして、体は、パイプにつながる。でも、僕は、パイプをとってください、付けないでください、とはそのとき言えなかった。
 あのとき、気道を確保しなければ、意識はないが、体は生きていて、という状態の窒息で、母はすぐに死んだ。意識のない時に、空気がなくなって死ぬのはどういう気持ちなのだろう。息ができなると、やっぱり怖いのだろうか。
 でも、パイプが気道を確保したので、意識が戻らないまま、彼女は、11月2日の夜から、12月20日過ぎまで、形の上では生きていた。パイプだけで、1ヶ月生きると、さまざまなことが、体の上に起こる。医者と相談をして、気道のパイプをはずしてもらった。担当の医者は、口約束はするのだがなかなか実行せず、私たちを立ち会わせて、ごく真剣な表情で、パイプを抜いた。彼女は、静かに息を続けた。医者をやるって、こういうことをすることだったのだ。僕は、ほっとしつつ、子供を医者にしたいという親は、こういうことを知っているのだろうか、というような関係ないことを考えていた。パイプをとって10日がすぎ、もう死なない、とぼんやり思い始めていた12月29日の朝早く電話が来て、母の息が止まりました、と知らされた。患者用の服から、死んだ人用の着物に着替えるとき、ちらっと見せてもらった母の体は、液体だけで長く生きていた人の、何か水ぶくれした、体の線のよくわからない、僕の知っている「お母さんのおっぱい」のある体とは違うものだった。死んだ直接の原因は聞かずじまいだったけれど、窒息ではないようだった。意識はなかったけれど、生きていて、何か、自分の体が水浸しになって、息ができなくなるときって、どういう気持ちなのだろう。何を感じながら意識が消えていくのだろう。
 母には、ごく懇意にしていた真言宗の和尚さんが、静月玉雲祥榮大姉という戒名を付けてくれた。月や、雲の存在が、これまでに増して、いつも気になる。宗教とは、ほとんど関係なく、僕の家にも、お彼岸がくる。あ、これが、宗教か。