2008年12月18日 暖かい。春のようなうすぼんやりした空に、くっきり白い雲。

美術館は、この週末のピアノコンサートで、今年の活動は終了。まだ、終わった訳ではないけれど、また一年が過ぎた、すごいなあ、ちょっと感動する。



今日の午前中、自分の年譜に書き足すこの一年を整理していたのだが、忙しく一生懸命生きることができた一年だった、ありがたい。11月の終わり頃、京都造形芸術大に呼ばれて、社会教育での美術教育について話をしにいった。普通通り起きていつも美術館に行く電車に乗って、ただ美術館には行かず、仙台駅から新幹線に乗って、文庫本のミステリーを読みつつ東京駅で乗り継ぐと、12時半には京都駅についていて、1時半からの京都御所裏手の大学での講演会の演壇に立って、わかったようなことを話しているのだった。目の前には関西の人たちが関西弁をしゃべりながらいるのだけれど、僕はなんだか夢見心地に、東北弁をしゃべっていた。もちろんちゃんと現実認識はできているのだが、頭の隅の方で、そのことを不思議がっている自分も感じるのだった。でも京都の芸術はちょっとすましすぎていて、僕にはなじめない感じで話は進んでいく。ええい、俺は東北から見てんだよ、文句あったらかかってきなさい、と、つい言ってしまいたくなって困る。その晩は、貴船の川床の料亭旅館に泊めてもらい、というとなんか凄いもてなしのようだが(そしてもちろん、本当にそうなのだが)実際には、この時期、京都は紅葉狩りで、どこもかしこも大混雑で、泊まれるのは、そこしかなかったというのが本当のようだった。次の日の朝早く、一緒に泊まったほかの人たちは京都市内に戻っていったが、僕は一人で鞍馬山に裏から入り、山越えして鞍馬寺に降り、叡山電鉄で市内に戻るという、至福の牛若丸トレッキング。千年単位の大木の茂る森に、小糠雨が静かに降り、所々の御嶽で、ヨガの呼吸法をしながら少しずつ進み、鞍馬寺の国宝の仏像の前に座ってのんびりしながら時間をかけて街に戻り、呼んでくれたK原君家の生まれたばかりの女の子の頭をなでただけで後は何もせずに新幹線に乗り、夕方には岩沼駅についているのだった。大学でのお話はさておき、京都は、いつ行っても、同じ場所であっても、何回行っても、もっと見たいところが次々出てきて、2000年ってやっぱり捨てたものではないなの感を毎回深くする。関西弁はチョッと閉口するけれど。11月12月は、時節柄、高校生や大学生の美術探検や美術館探検が立て続けに予定されていて、一日3回美術探検をすると、さすがに、俺、倒れるんじゃないかと思ったりする。簡単に流そうと、本当に心から思っていたりするのだが、なんか一生懸命な目の高校生とかに周りを囲まれると、気ずいたときには声を振り絞ってものすごい集中で話をしてしまっている自分がいる。でも、まあ、お話の最中に倒れたら本望だな。みんなには迷惑をかけそうだが、死んでしまえばその後のことは知ったことではない。倒れるまで、できるだけみんなの相談に乗れたらいいな、と思う。鞍馬山からかえってきて毎日忙しく美術探検をこなしていたら、風邪を引いた。インフルエンザではなく、動きすぎ(働き過ぎでは決してなく)から来る体安め(からだやすめ)のための風邪。風邪で寝込んでいるのに夜にお話の呼び出しがかかったりしながら、でも結局、ほぼ1週間寝込んだ。毎日昼間から寝てしまえるので驚いた。寝過ぎで腰が痛い。そうして風邪が治った時点で、東京都図工研究会の西多摩大会に助言者で呼ばれて、今度は横田基地の東側の、瑞穂町という街の第一小学校に行く。造形教育の助言者で呼ばれることほど、美術館職員として困ることはない。だから図工はわかんないんだってば、って言ってるでしょうと、冒頭必ず言うことになる。今回は、鑑賞教育の実践を見せてもらった。大人の絵描きさんの絵を借りてきて、本物の現代の美術をみんなで見る。ここまでは良い。で、その作者に来てもらって、どのような想いで描いたのかとかを聞くのだが、これはどうだろう。良い絵というものは自立しているもので、それは作者の想いからさえも自立してしまっている。作者の話なんかどうでも良いのだ。そこにある絵から各自が読み取れるものをできるだけ読み取り、読み取れたものを使って、各自がお話を組み立てる。もしもその絵が良い絵なら、そのお話は広がりを持ちながらしかし人間としては同じ結末へ向かう。そこに見えるものの読み取りとそこからの組み立てにこそ教育のしがいが有るはずで、読み取りのみ、しかも、作者の想いの読み取りにのみ終始するのは、あまり良い美術の使い方ではない。現実を素直に見る目。見えたものを見えるものにする力。そのときに使う体験を経験にかえる力。その辺りに、美術の働き場所が有るのではないか。でも、こういう話は、今の学校教育の中で、どれほどの理解を先生たちに得られるものなのだろう。高揚しつつ落胆。先は長い。なんて言っているうちに死んでしまうのだろうから、あんまり動揺してもしょうがない。