2008年 2月19日 晴れのち曇り。空気はもう寒くはなくなってきた。でも、雲はまだ冬。

ちょうど一年前、僕は、家で、小さな爆発事件を起こした。つい昨日のような気がしていたけれど、もう一年もたってしまったのか。
そしてつい先週の15日、今年はぼやだ。あとほんの少し何かが違っていたら、多分全焼になりかねないぼやだった。
 数年前の脳内出血以来、僕には不幸中の幸いがついている。様々な条件が実にうまく絡み合って、決定的なことが起こっているのに、あと一歩に踏み込まずにすんでいる。あと暫く善く生きなさいということか。


 僕の家はみんな煙草を飲まないが、僕のワイフの明美さんだけは精神障害者で煙草を吸わないと落ち着けない。そのため、一階の南端にある彼女の部屋は、あまり日光が入らないように窓が小さく作ってあって、かつ煙草を吸ってもいいように作ってある。大きな換気扇が付いているということだ。その日も彼女は、朝に何本か煙草を吸って灰皿で消し、外に気晴らしに出かけた。そのとき、灰皿の中身をゴミ箱に捨てたようなのだ。後で見たとき、いつも吸い殻で一杯のアルミの灰皿がすっかりきれいだった。明美さんは悪気なくそういうことを何気にする人なのだ。火は消えていなかった。彼女が出かけてしばらくしてから、二階にいた胞夫さんが異臭に気づいた。何かが燃えている。彼は耳はもうすっかり遠くなってしまったが、鼻はちょっとしたなれない臭いでもすぐにうるさくいうほど利く人だった。彼が階段を下りてくると彼女の部屋から煙があふれていた(らしい)。彼はもちろん戦争に行った人なので、こういうときは普段からは想像ができないほどかくしゃくと動いた(らしい)。一階のトイレの脇にある作業用の水道から、水を汲んで来て、的確に火元に水をかけた。作業用なので、水がたくさん出やすい蛇口だったし、大きめのバケツも流しの下に用意してあった。火元は、明美さんが普段使っている12ミリ厚のシナベニヤで僕が作った四角い作業机の下だった。そこに彼女のゴミ箱がおいてある。プラスチックのゴミ箱はすっかり融けて机の下の棚に置いてあった様々な紙類(アルバムやメモ類)が燃えていた。しかし、厚いベニヤでまわりを囲まれているので、炎は、机の下からはみ出さないでいた。ただ換気扇が回っていたので机と壁の隙間から炎が這い上がり、換気扇のダストカバーは融けてだらりとたれ下がり始めていた。なぜか、いつの間にか足元を長靴で固めた胞夫さんが、もう一杯の水をかけているとき、デイサービスの人たちが胞夫さんの朝のお迎えに僕の家に着いたのだった。彼らは、的確に(もうほとんど消えていたとのことだったが)火を消し、僕の携帯に電話をくれ、僕がすぐ駆けつけることを確認した上で、簡単な、しかし的確な後始末をして、胞夫さんをデイサービスに連れて行った。
 仙台に住む僕の娘の悠美さんは、毎週一回僕の家に来て家事の点検をしてくれている。今週は用事があって、木曜日の予定を金曜日に変更して岩沼に来ることになっていた。デイサービスの人から電話をもらったとき、ちょうど彼女が美術館に来ていて、岩沼に出かけるときだった。僕は、彼女の自動車に乗せてもらって、すぐに家に戻った。家に付くまで、僕は、多分胞夫さんの勘違いかなにかで、あまり大したことではないのではないかと考えていた。付いて、彼女の部屋をあけたとたん、そこは水浸しだった。ものが燃えている臭い。本格的な火事の現場。とにかく床すれすれに作ってある窓を開けて水を外に流しだし、換気扇をまわして(回ることは回るが、異音がした)床を拭き、燃え殻をゴミ袋につめる。空気は乾いているので、水びたしだった床は、何枚ものタオルを真っ黒くしながらからぶきをすると、みるみる乾いていった。10時過ぎから初めて、昼過ぎにはざっと終了。でもそれからが片付かない。結局いろいろやって、美術館には5時頃に戻る。簡単に考えていたので、持ち物をすっかり置いていってしまったのだ。時間が経つにつれて、だんだんと力が抜けていく。いやはやまったく。
 でも最初に書いたように、しかし、我に返って振り返れば、今回も不幸中の幸いの積み重なりで、僕は一命を取り留めたのではないか。襟を正して頭を上げて向こうを見ようと思う。