息をする様に歩く。

歩く様に息をする。

そういう風に、居る。


2022年10月28日 清々しく乾いた冷たい空気。雲一つない青空から、太陽がその空気を温める。

実は、今日はもう11月4日だ。で、前に書いていた、この文を、とにかく掲載してしまおう。


いつもとそれほど変わらない回数の児童館の人たちと、神社の裏山や、近くの古い公園での探険という名の活動。昔の友人たちからのお誘いの–ノッツオコキと呼ばれる–長い散歩。その隙間をぬって幾つかの病院を回って、薬をもらったり歯や耳の掃除点検。書き出すとそういうことになるが、でも、ふと我に返って想えば、すべては僕にとって不要不急なモノ=必要不可欠なモノで、自覚される意識としては、毎日ずうっと散歩をしている日々だと言っていい。そしてこの時期、アメリカンフットボールのアメリカ各地からの実況生中継が、毎週金(木曜夜分)、月(日曜夜分)の午前中に始まる。実に、こういう毎日になるため、僕は、ある時期、一生懸命、みんなのために働いていたのだ。


毎日、夜寝る前に、このブログに何か書くことを思うのだが、早く寝て、明日、また元気に起きることの方が、今の僕には大切なことだと決心して、何もせずに寝てしまう。こういう態度こそが、お爺さんとして立派なことだと、僕は思う。

最近、このブログの更新があまりないのはそういうことが、原因だ。


そういう毎日の究極の形として車で出かけた。最近、僕が一人で車でどこかわからない遠い所まで出かけるのを、家族が心配する。遠くまで出かけるというのは、僕自身もあまりよくわからないところまで行くことで、昔は、よくしていたことなのだ。


モーターサイクルに乗れる様になったとき、まず感じたことは、ああ、一人で、ここ(地球の上)に居るということはこういうことだったのかということで、それまで様々小出しにわかっていると感じていたことが、一気にガチャガチャと組み合わさり地球(ということは宇宙ということと同じことなのだが)にいる自立=自律(しなければいけない)自己という意識が確定されて、解放されたという様なことだった、と今は書ける。言葉にするとなんとも変な感じだが、僕の社会的な動きの大基はその様なところにあるのだなあと、思う。

そういう人のところに、博物館(僕の場合は美術館だったが)で博物館教育をしないかという仕事が来たのだ。毎日楽しく一生懸命になるのは当たり前だったのだ。博物ってそういうことを自覚するための、訓練だったのだ。


で、時々、自分に、正しく向き合うために、僕は一人で出かける。その辺の山の中を歩くときもあるし、小さいモーターサイクルで、記憶にある細い道に行ってみたり、古い小さな、全てアナログなフランスの自動車で、どこだかわからない所まで出かけて、そばを食ったりする。最近は、紙の地図が、街の中(例えば、コンビニとか)には無くなってきていて、ますます楽しみが増えた。ここがどこだか、本当にわからなくなるからだ。


というようなことをしていたら、身体は正直に齢をとり、脳内出血やら、心筋梗塞やら、それに伴う癲癇や、露天風呂での湯あたりや、逆流性食道炎などで、思わぬところで気を失ったり、血を吐いたり、腰が立たなくなったり、様々顕著な老人力がついてきた。家族の心配は当然なのだ。なので、今回は、気心の知れた女友達のKKさんに同乗してもらうことで、出かけることができた。いやはや。前置きが長い。でも、こういうことを書くことで、僕の毎日が、僕の中で自覚され、そして回り回って肯定される。こういう態度も、老人力の大切な一部なのかもしれない。


毎年今の時期、山形鶴岡で、新作!日本刀全国展示会が行われることが多かった。それを見に行くついでに、街の中に普通にある蝋燭屋で、1年分の日本蝋燭を大小買ってくるのが常だった。ここ数年、例の外出移動控えで、展示会も休止になったりして、行っていないうちに、蝋燭は使い切ってしまった。夜が早く長くなる前に、蝋燭を買いに行きたいと思っていた。

だから、今回も、最初は鶴岡あたりに、下道だけを通って行こうと思っていた。そうしたら、長い距離を走るための車の、冬タイヤへの履き替えがなされていないことに気づいた。最近の季節の移り変わりは、僕が基本的に持って/知っているものと大きく変わってきているから、山越えで、日本海側に行くのは、今回はやめにした。で、とにかく家を出て6号線に乗り海沿いに南下した。


そして、2泊3日の大!出たとこ勝負!行き当たりばっ旅が始まったのだが、それは、また別に書き始めよう。いやはや、なかなか始まらない。