見えているのは、

自分の前だけ。

自分の後ろにも、

世界は、多分、ある

2022年10月 4日 温度の高い、しかし乾いた風の曇。


朝から、北朝鮮のミサイルが、日本の上を飛び越えていったらしいというので、世界は相変わらずまるで20世紀の初めの頃の様に騒々しい。あの頃は世界中の帝国が、消滅するための騒々しさ(そうして唯一残った帝国は僕たちの国で、残るための形は、こういうものだった、という、善い?例もあるのに)だったと、今は言えるが、今回のこのなんだかわけのわからない騒々しさは、民主主義が定着するためのそれであって欲しいと、20世紀の中頃に生まれた僕は思うが、民主主義そのものが、一体なんだったのかと点検されている最中の様な気もして、襟を正す。

朝から、しばらくぶりでこの文を書こうと始めて、あっという間にどこか違うあたりに思考が飛んでいく。いやはや、何という21世紀なのだ。


数日前に、昔の友人が訪ねてきた。70歳を過ぎると、昔の友人たちは、年齢に関わらず、みんな忙しい。

ぼやっとして(できて)いるのは、両親が震災前に急に続けて亡くなり、すぐに公務員を定年退職。子供達は皆んな元気に、善い連れ合いと子供達と共に、何とか生活していて、中学以来の付き合いだったカミさんも、ある朝風呂の中で死んでいた、という様な、ふと我に帰れば、我だけしか視ることがなくなってしまった、僕の様な人だけだ。少し冷静に俯瞰すれば、何という僕の人生なのだろう。何だかわからないが、何故かほぼすべてのものに感謝の念が湧いてくる。


今回訪ねてきた人は、若い女の人で、だから、今子育てで忙しい。僕と同年輩の女の人たちは、ほぼ皆んな介護をめぐる忙しさ。同年輩の男の人は、皆んな長生きになったので、相変わらず仕事上大切な位置に、相変わらず、いるか、真剣な病気。いやはや。あ、楽しく元気に働いている人は、僕のところに来る時間なんかないんだな。いやはや、すまぬ。何という狭い人生観。


この毎回のブログの始めに、短い文を書き添えているが、時々読み返すと、だいたいあの短い人生観で僕の毎日は過ぎているようだ。世界は、自分の知っている物や事だけが見えて、それらが引き起こす理解できる僕の世界の輪郭は、自分がそこからどれだけ抽象的な世界を広げられるかにかかってい/くる。

薄く秋の雲がはかれている青い夏の終わりの空の下、僕の家の狭い裏庭の古い木のベンチに麦わら帽をかぶって座り、梨木香歩の昔のファンタジイを読む。昼に、義理の息子が作ってくれた梅干しのお茶漬けを大きなお椀で食べ、少し昼寝をした後、夕方柴犬のゴローと一緒に、踏切を越えた向こうの田んぼの中の未舗装の道を七千歩+程散歩。何という毎日。今日の午後は歯医者の予約が入っている。