五、六千万年前に
僕らは猿ではなくなった。
でも絵を描いたのは
たった三万五千年前。
だから絵を描くこと自体が
喜びなのだ。
2014年 7月29日
乾いた暑い空気。無風。
最近、白石、角田、丸森が境を接し合っている所にある大蔵山に関わる活動が多い。昨日も、若い友人達を誘って行ってきた。大倉山は伊達冠石の出る山で、そこで来年何か美術的なワークキャンプをしたいという相談なのだが、今日の話はその事ではない。
大蔵山に関わっている関係で、丸森の観光マップをもらった。丸森には猫神を初めとしてヘンな(これは僕においては褒め言葉だ)状況が多々ある事はすでに知っている。そのマップに「立石」というのがあった。なんか、凄くデカイ1個の石がスックと立っている、らしい。町から不動尊公園に行く途中、左側に見える、らしい。ううむ、不動尊公園には何回か行っているが見たことないぞ。気になる。天気もいいしクロスカブを動かすには最適の日だ。
朝の家事を終えてから、一応山用の薄いパンツにビルケンのスポーツブーツ、物凄く古いクシタニのメッシュエンデューロジャケットを着て、その下にTシャツ。カブ用の軽いヘルメットにゴーグル、物見遊山の気持ちで、一応水だけは持って、出発。
カブで行くと、ルートは縦横無尽に取れるので、ほぼずうっと阿武隈川の堤防の上をたどって丸森まで行く。堤防から新しく出来た丸森大橋を渡って東側から街に入り、役場の横から不動尊公園の方向へ進む。猫神の時でも解るように、丸森には僕の廻りではもうだいぶ少なくなってしまった様々な神様にまつわる様々な状況が今も生きている。それを丁寧にみんなで掘り起こしている。丸森の観光マップには、それを見ないと絶対にわからない面白い物が山のように載っている。古碑街道なんて、これを見なければ絶対にわからない。いや、その話は次の機会だ、今日は立石に行く。でも丸森ですからね、そう簡単には見つからない。この前の猫神の時に身にしみているので、丁寧に確認して進んでいく。
まず、丸森大銀杏!の東側の道をまっすぐ?に行って少し広い道!に出たら、南に下がり点線の道!に入る。そうしたら立石入口の看板に出た。そこから未舗装の道を山の中に入る。土砂取場になっている。なんかもう立石も取り崩されていたりしてと、やや心配しながら山肌むき出しの谷を進んでいくと奥から白いトヨタクラウンが降りてきたので聞くと、立石の入口を教えてくれた。「看板を入ってすぐ左に折れて細い山道へ」だった。「バイクでは行けないよ。でもそういうバイクなら大丈夫かな」とのこと。とは言え、何しろクロスカブですからね、覚悟して突入。ほんの少し入ってすぐ挫折。ヨロヨロとUターンして道の端に停め、ヘルメットや上着をまとめてカブにくくりつけ、Tシャツ一枚になって用意の帽子をかぶり水を持って出発。結構急な山に、新たに削り作った道がつづれ折にぐいぐい登ぼっていく。道が雨で崩れかけていて、土砂崩れになりかけているように谷側に向けて割れ目が入っている所多数。雨でウオッシュアウトしている所も多数。でも草はそんなに茂っていない。ビルケンの靴底は基本的に平らなので、溝は入っているとは言え、乾いた山砂の登りはぜんんぜんグリップなし。下りはどうするかなんていう事を考える前にぐいぐい、しかしゆっくり慎重に、登る。結構な距離。ぐにゃぐにゃ登って行き、最後に細い階段で薮を抜けると、突然空の中に石がゴーンと立っていた。何ということだ。山の頂上に周り25m高さ12.5mの御影石が、一個ポツンとつっ立っている。
ううむ上手く言えない。そこに居た時、これは今日中にぜひブログに書いておかなければと思ったのだが、今ここで書いてみると上手く言えない。そういう場所と感じ。あそこはみんな行った方が良いが、内緒にしておきたい気もする。僕は裸になって石の側でしばらくヨガの呼吸をし、慎重に降りてきた。
立石からの帰り道、丸山城趾の表示があったので寄ってみる。なかなか良い石組みが残っていた。齋理屋敷の所まで戻り昼飯。
立石を見て、美味い飯も食ったので、なんだか勇気淋漓になった。そこで、ここまで来たらと丸森3城制覇を思いつく。この前大内の上野農園に寄った帰り小齋の見張/物見櫓を見てそこで知った丸森3城。丸山城を見たらあと金山城を見ればいいはずだ。113号線を相馬の方に戻り金山で標識にそって城跡に登る。丸山城は木が茂っていて景色は見えず、しかし石組みだけがその中に静かにあり、なかなか念い深かった。
金山城は規模が全然違っていた。大きい(広いでなく)山城。ここの城の人はこの上り下りを縦横無尽に使っていたのか。見晴らしは凄い。このあたりで戦う時はここに陣地を構えるのだ、というふうに丸森を中心にした盆地が、上手い具合に全部見える。なるほど。行ける所を全部歩き回って小齋逢隈経由で帰宅。するつもりだったのだが、最後に小齋の物見櫓にちょっと寄ったら、ここは柴小屋城の物見櫓だと書いてある。柴小屋城って何?何処?櫓の裏/反対側に城跡こちらの旗/のぼりが立っていた。細い踏み分け道が森の中に消えている。奥にのぼり。城跡まで600mの表示。時刻は15時になったばかり。ここまで来たのだから行ってみましょう、と歩き始めた。ええと長くなるので詳細は省略するが、ここも典型的な山城だった。山の中の上り下りをのぼりにそって600m、往復した。結構なトレッキングだった。
様々な情報を重ねると、伊達政宗が若者だった頃、この辺は金山城や柴小屋城、丸山城を拠点に縦横無尽に戦いを繰り返していたようだ。相馬藩と伊達藩の境。400年もたっていないのに、柴小屋城なんて今は物凄い山奥になっている。山の中に空堀が掘ってあって、それは山を廻ってズウッと続いていた。たぶん全部ではないにしても、誰かが掘ったのだ。いやはや。その頃はたぶん今とはまったく違った道にそってまったく違った街と生活がここ/このあたりに広がっていたのだろう。森の中に静かに立って、この辺を走り回ったり穴を掘ったりしていた人達の事を念う。ひょっとするとあの石も誰か(達)が人力で立てたのかもしれない。
想い深い一日が過ぎる。