10歳といっても、
生まれて120ヶ月。
ほぼすべての出来事が、
全部初めての経験。
という体験を、
経験値に変える練習。
基礎教育。
2014年 7月21日
快晴。湿度の高い空気、無風。
だいぶ前に書き始めた文章を公開したい。なかなかまとまらなかったのと、書き始めたとたん、様々な相談事が起こって、しばらく考えることができなかった。様々な相談事は、結構面白い事柄だったから、又別の機会に書こうと思う。
2014年 7月 3日 厚い高曇り。雲から漏れる少しの日差しが暑い。
昨日の夜、小さい男の子を持つ若い友人から、しばらくぶりに会って話をしたいのだが時間ある?という電話が来た。もちろん時間は有る。で、何の相談?「政府がなんだか決めちゃったじゃないですか。僕はなんだか凄く心配なんだけど、齋さんと話せば少しは整理できるかなと思って」という相談。ううむ、来たか。
今年度初めから宮教大で一般教養としての美術の話をしている。昨日は水曜でその授業の日だった。この時期教育大では実習が始まるので出席は4名だった。この授業は半期なので、もうそろそろ終わり。いつもより親密に美術技術の練習初歩の作業をした。鉛筆での丁寧な塗りつぶし。顔の表情に乏しい学生達は、しかし、僕が昔大学で教えられたのと同じ反応を活動に示し、面白かったと感想に書いていた。
帰りは事情があって、友人の自動車に乗せてもらって岩沼まで。4号線などメインストリートを主に使用。ほんの50分程の間に、信じられないような割り込みと急な方向転換に数回あう。最近回り気にしてない人多くなったよね、という会話。ああ、みんななんとなくそう思っていたんだね。
今朝も事情があってモーターサイクルで出勤。そもそも、今持っている125ccの小さいモーターサイクルで出勤時間の4号バイパスを走るのはなかなか緊張する作業。長々と渋滞している1台に一人しか乗っていない自動車の列の脇を、モーターサイクル、スクーター、スポーツタイプの自転車などがギリギリとすり抜けていく。歳を取っているのを自覚しているので、僕はサイドのすり抜けをせず、静々と邪魔にならないように気を使って、車の後に付き、信号などでは無理をせず、結構な時間をかけて美術館まで来る。でも、何回かクラクションを鳴らされる。黄色信号なんだから行ってしまえよ!の意味。その度に後ろを振り返ってすまぬの合図。
今日、美術館には近くの小学校の2年生が、粘土の活動を含む、美術館探検に来ている。元気に騒がしい。例の「おはようございます」のかけ声で、それは突然静かになる。イタリアから来ている作家が驚愕する、「静かな8歳」の人間の集団。
ごく普通の毎日が過ぎていく。でも、僕の感じるこのストレス?はなんなのだろうと黙って思っていた。
しばらく前から、本当にそうとうしばらく前から、こういうことは何もおかしいことではないと、みんな思っている毎日が、僕達の国では続いている。今回の政治の有り様は、気付く側にいる人には、ああ、やっぱりなんかおかしかったんだと気付くための、最後の手だったのではないか。そうかこういうふうにヘンになるんだと逆に気付くための。
そしてこの状況は、もうここまでみんなで来てしまっているのだから、今更どうこうできるものではないということも、みんな知ってしまっているのではないか。もう後戻りはできない/しない、という感じに。
宮尾節子という人が書いたという詩を息子がツイッターに載せていた。
「明日戦争が始まる」
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった。
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
じゅんび
は
ばっちりだ
戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
僕は元々が戦車の模型を作る人なので、具体的な物を通して戦争関係の事物に興味を向けつづけて来た。戦争映画はよく見るし、DVDも少なからず持っている。CGで作るのが当たり前になって、それらの映画は一気にリアルになった。その上、今年は1次大戦から100年目だ。模型も映画も、これまでとは幅も深さも違うレベルの情報があふれて来た。それらの映画を見るとき、僕の感じる心苦しさは、戦争では、どこでもいつでもグレイゾーンの積み重ねで、(物事が)既に決まっている方向に進んでいくことに由来する心苦しさだ。ちょっとでいい、そこに踏み止まって、正悪問わず考える。止まって考える。最低限の人間としての行為をすると、訳もなく死んでしまうのが、どうも戦争というもののようだということを、それら作られた映画でさえ僕等に伝える。実際はそれどころではないのだろう。
そこに今ある事や物をリアルに感じ取る力。自分の常識が常識なのではなく、常識そのものが多様性を持っているという事を実感として持つ常識。そのために始められた民主主義。しかしそのために創られた選挙という方法が作っている現状。個人の力は、各自が持つ1票に集約される。1票に集約されるリアル。その各々のいる場所で、その時点時点で何をするかが毎回問われている。その結果の現状。これまで何をしてきたかが、今に集約され象徴される。その一言、1行動が、積み重なってしか社会は動かない。そういう動きをこれからも続けていくしかないなあと、僕は思っている。軽々に動かない理由を考えると、本当に無力感に包まれる。僕が単に歳とったためだけだといいのだが。