基本は一人。

見えている物は、私にしか見えていない。

まず一人、として考え始めてみるしかない。

2012年 9月19日

湿った暑い空気。厚い曇り。



 来年も再雇用されたいか?という問い合わせが事務方から来た。ううむ、来年のことは本当にわからないなあ。でも、とにかくそういう方向で書類を出しておいてくださいということなので、書類に記入し作文を書いた。何気なく、しかし思う所を短く書いたら、アッという間に以下の文になった。でも、書類添付用の文は400字以内だという。そっちには書き直した物を付けるとして、せっかく書いたのだから、ここに公開してしまおうと思う。


  再雇用されて1年働いた。昨年、初めての再雇用のための作文で、僕はやや腰が引けた感じでいる旨書いた。もう30年間もやったのだから充分ではないか、と。

 この1年やって見て、それは、やはりそれはこちら側からの視点だったということを身にしみて感じた。この30年間、僕は常に注意してこちら側からの視点—それは、学校教育での教師の視点というような意味だがーにならないように注意してきたと思っていた。美術館での美術教育というような社会教育(もちろんそこだけでなく、「教育では常に」が正しいのだが)では、教育の主体は常に強く受ける側にある。今日の教育の目標を決め、教えることを準備し、授業方法の計画を立て、「はいこっち向いて」と号令をかけて話し、聞いてないと怒り、話し終えると、こちら側が一方的に評価する。学校教育ではごく当然の形態は、社会教育では全く使えない。いや、「本当は」使えない。日本では、学校教育以外の教育形態について、ほとんどの人が注意を払わないので、「本当は」と断りが入ってしまう、ということこそが問題なのだが。

 実際の社会教育では、何をどのように知りたいかは、そちら側(受け手側)が持っている(とみんな思っている)。受け手側が知りたいそれが、その問題のどの辺に位置していて、そこからの展開においてその人がどれほどの可能性のある展開の力を持っているかということは、質問している(わかり易くいえば、素)人にはわからない。ごく素朴で素直な疑問/質問から、(たぶん特に)美術は大きな飛躍と展開が起こる可能性を常に持つ。社会教育では、そういう可能性をその質問者自信が自覚できて、自主的に展開できるようになることこそが教育の目標になる。(そして再び)もちろん社会教育だけではないのだが。

 しかしこういうことはなかなか上手くは伝わらないのだなということがこの1年で身にしみた。やっていることは全く同じことだが、役職から離れ、より時間的事務的な余裕の中で、より広範囲に来館する老若男女みんなの相談に乗る。美術館職員も含め、その活動を通して、美術の深さと広さを実感として感じられる人を増やして行く。仕事はむしろ今から始まったと言えるのかもしれない。