見える世界は知っている物だけで、できている。

世界を拡げるには、知り方の方法から変えるしかない。



2012年 9月 9日 乾いた秋の風。でも夏の日。

 7日の夜に、第一回お話の会が終わった。たぶん、来てくれた17名?の人は、みんな僕を知っている人だったのだろうけれど、僕は知らない人が何人かいた。行きたいが行けないという連絡をくれた人数名。みんな来てくれてありがとうというのはなんか変な感じだな。

 近代の自我の確認を巡る想いを話した。話したことをまとめて記そうとすると、こういう固い言葉になるので困る。もちろん全然難しい話ではない、と話した本人は思っているのでたぶん一層、困る。くどく、長い、各論アッチコッチ併記(平気)なお話。美術館でこれまで(ま、今も)様々な相談に乗っていると、最終的に「僕等は近代の最後のあたりにいるのだという自覚」を、その「困って相談に来ている人」がどのくらい持っているかが、問題の基の所に深く関わってくることが多い。相談は実践的な受け答えだから、そのの最中には、なかなかそこまで話す時間がとれない。今回は、思う存分そこのあたりのことだけを話したから、普段のストレス?が少し解消?した?

 ほんの少し昔、神様や悪魔や、お化けや魔法使いや、要するに人間ではない人間の仲間がすぐ身近に(心から本当に)いた時代の「私の意識」から、私を意識することは「私だけがここにいるということだけ!」が確実にわかる、ということだという「自己のわかり方」を気付いてしまって以降を近代だと考えると、今の私達を取り巻く様々な問題はそんなに難しくないのではないかという、実に楽天的な内容。できるだけそういう態度で、自分の生活/人生を組み立て理解したいものだという話。
 そこから始まって、今、僕の今ここにある問題(震災、原発に対する態度から始まって、昨日の帰りにであった署名活動に署名すべきか否かまで)に、即興で個人で対処できるのが近代。即興ということは、深く考える前に、直感的にその行動は自分にとって善かそうでないかを決めて動くということだ。動いてしまったことは取り返しができない。取り返しができないということは、してしまったことをその後如何に自己肯定できるかということだ。近代の自我は、やったことにそういうふうに責任を取る。
 尻をまくるとか、言い逃れをするとか、開き直りとか、日本の言葉には、だいぶ前からそういうときの様々な自己肯定のための言い回しがある。そしてそれらは、どちらかと言うと否定的な言い回しであるように感じられるけれど、むしろそれは、僕達の中に西洋の人達が気付くだいぶ前から近代の自我の認識があったからではないか。僕達の世界の神様は、西洋的な意味での神様とは、たぶん初めから全く違った形でいたのだと思う。近代が、ここまで来た今だからこそ、深い意味での開き直り=覚悟の意識とその実践の仕方を考えたい。