宇宙の中にいる私。

見ている宇宙としての空。




2012年 4月 1日 晴。風の冷たい春の日。

今日から基本的には出勤しなくてよい毎日が始まった。まだ実感が伴わなくて、ただの長い休みの日の始まりのような気分。3月31日が近づくにつれ、僕はなんだか身の回りが急にやたら固く形式張って来たように思われて仕方なかった。全ての活動がネクタイ労働になっていくように感じられて、いやだった。多分、単に式典が増えていっただけ、ということなのだろうけれど。33年もやって来て何をか言わんやだが、僕は本当に、公務員は苦手なのだなあと、改めてしみじみ思う。今日からは、朝7時の電車に乗るための朝食ではなく、今日を始めるためのエネルギーとして朝食をとることができる。嬉しい。

その間もなく終わりという時期にわかったことをいくつか書き留めておきたい。
3月1日に聞いた酒井さんのお話。当たり前だが、昔の人はもちろん様々な経験を積んでいるのだった。美術館教育だって充分様々さんざん経験して来た上で、なんだか判んないことを言う齋を雇ってくれたのだ。どうやってもアカデミズムに陥りがちなそこに、齋の言っていることは何か理想主義のようなものを感じさせたらしい。アカデミズムに対抗するための理想主義。ううむ、深く考えると凄く大変なことになりそうだが、語呂は良いなあ。
僕が入る前の(そしてどうも今でも)学芸員界は、大学の研究室の力関係のような形で様々動いていたかのように僕には感じられた。帝国大学系の人脈の中に、教育大ーしかも超ヘンテコリンな宮教大なんていうーが混乱を投げ入れたというようなことなのか。大沼かねよや佐々木健次郎を見るまでもなく、日本の学会のような組織の中での教育大のいる位置のようなことを、少し考えた。教育大はもしかすると、凄く大切なことをする運命にいるのか。そう見ると、なんだか判ってくることがある気もしてくる。誤解、深読み、思い込み。

僕の知っているワークショップは、1リソースの確認 2スコアの提示 3ヴァリエーション&アクション(ヴァリアクション) 4パフォーマンス と言う、極単純な進み方をする、教育技法のひとつだ。問題があって/起こって、それをなんとかみんなで解決しようとする時、これまでの方法を超えてより広い世界観を得ようとする時に有効。成就するイメージが既にあって、それを効率よく、なんか和気あいあいと作り上げる、というようなものではないし、ましてや誰かが我慢を強いられるというものでもない。僕の知っているワークショップは、物凄く本質的なコミュニケーションの練習のようなもので、表現やその伝達というものは、これまで学校などで、組織立って鍛えられたり訓練されて来たものの他にも、広く深くあるというようなことを感じさせるものだった。
この震災で様々な所や状況で、様々なワークショップが行われているが、状況が切羽詰まっているからと言って、その問題はそこにいる人達に、これから深く関わっていくことなのだから、本ん当は(投げやりという意味からは最も遠い意味で)放っといておくための相談に乗るべきなのではないかと、僕には思えるのだ。そんなに効率よく急いでやって来たのでああいう20世紀をやってきてしまったのではなかったか。もちろんその場所場所の事情が深くあるということは理解し考慮するとしても。

だから僕のワークショップは、準備をしない、成就を目指さない。だが/だから、相談に深く乗る。相談した人が気付かなかった所まで、広く、ダイレクトに、余計なくらい深く。最近様々な所に呼ばれて2時間で成果の出るワークショップをとせかされるが、そういうのは、僕にはできない。誰か他の人に頼んで。そういうのが上手い人は沢山いる。僕にはストレスが増えるばかりだ。これにも誤解、深読み、思い込み。