2012年 4月15日 空気が暖かい晴。

空気はそこにある。
空気はなくならないのだろうか。


退職のローテーションに入って、あっという間に2週間過ぎた。ここまでの素直な直感としては、再雇用は僕にとっては失敗だったのではないか、という想いだ。美術館の創作室に関係を持つのは、30年、もう充分だったのではないか。
とは言え、給料がこれまで通り出なくなってみると、僕には今少なくとも毎月10万円程のローン返済があるということが判った。借金はできるだけ作らないようにしてきたつもりだったので、やや動揺。胞夫さんが予定より早く死んだので住宅ローンがまだだいぶあった。それと、胞夫さんと明美さんのためにオール電化にして、それに伴う太陽光発電施設関係への返済。しょうがない、世界は経済を中心に動いている/いたのだった。何はともあれ、ジワジワと社会との関係は残しつつ、少しずつこれまでの状況を点検し、清算していきたいものだ。

週3日美術館に出て創作室にいてみると、30年続けてきたことが、いかに独りよがりだったのかが判る。その人が判ることだけが、その人だけに伝わる。言葉のリアルさは、言葉にするとなぜかむなしい。「言葉でなく判ることだけ」がそこに残る。だからその言葉の基(僕のことだ)がそこにいなくなると、言葉はその人が理解していたこととしてだけ動き始める。普通、人は比較して点検できない、ようなのだ。世界って、本当に、その人の頭の中にしかなかったのだ。知ってたはずなのに、実際見せられるとやや動揺。僕は何をウジウジ考え、何をシコシコやっていたのだろう。シコシコやってウジウジ話さなければ伝わらないと思っていたのに、どんなにしてもその人が判ったことだけしか伝わらなかったのだ。
そこにあることにどう対応するか(たとえば震災に対して)という時に、何かどうしても静かにしてしまっている自分の理由付けは、この辺にあるのではないか。心の揺れは「綺麗だ!」という方向だけでなく「きったねえ!」という方にも動いてこそリアルなのであって、頑張るきれいごとだけが並ぶ今の感じからは、僕は大きく距離をおきたい。もう何もそこにはなくて、そこにあったものだって、たかだか200年程の積み重ねだった。また200年、僕らはいい機会に恵まれたのに、また同じことをしようとしているように見える。というような。