あのメス(母)とあのオス(父)の遺伝子が、私。


私の子供は、私と妻の遺伝子継承者。


子供は私ではないが私だ、という意識



2012年 7月21日 湿った冷たい空気。厚い雲。

 最近起こったりやったりした事を通して、あちらこちら考えが飛び回る。起こった事は、森での活動を見に行った時に誰かが遅れて来たとか、夕食後のテレヴィで小田実の遺言特集をしていたのを偶然見てしまったとか、保育所の人達との活動の打ち合わせをしたとかそんなたわいない事なのだが、そういう事が様々重なって、ある時ふとある事に気付く。
 たとえば、僕はそうではないし、かつそうならないようにしようとして来たはずなのだが、どうも、僕は分類上、アカデミックなインテリゲンチャという物なのではないかと、最近思い始めた、というような。

 何だか最近の僕の職場は、確か「美術館!の教育!をする所」なのに、ほとんど上意下達の言葉だけで、教育が進むようになって来ているのに誰も気付いていない感じがする。

 今「じょういげだつ」と打ったら出て来ず、これは上意下達(じょういかたつ)と読むという事がわかった。61歳にして初めて知った。今まで僕の上意ゲダツに付き合ってくれていたみんなすまなかった。

 前にもどこかで書いたかもしれないが、今年度僕の代わりに来た部長は「僕に言われたものを色々読んでみたが、ここは何をする所なのか何処にも書いてない」と言う人だった。僕は「概要」に充分書いてあってこれ以上細かく書かれると嫌だなと思っていた。そもそもこの美術館は云々、だけを基本に実践をやって来て、辞める直前に少し文章にしてみた。それでも書きすぎたと思う所がある。という話をしたら、今残っているスタッフのみんなは少し笑いながら、組織というものはそうではない、というようなことをしたり顔で言うのだな。ううむそうだったのか、みんな大変だったんだねえ。自分で考えるという事が。たぶん戦争している現場だったら、僕も少し代わるかもしれない。僕はサンダース軍曹好きだし。でも、みんなそういうの好きなの?教育の現場で?

 でも、今、美術館。そんな、どこかに書いてある事をするのって美術館で集めてる美術で説明できる美術か?ううむ、みんなそういうふうに「自然と疑問無く思って」いて、しかも、それを「上手くやる」のが教育だと思っていたのね。だから、学校はああなって、子供はこうなって、なので、そこを良い(誰にとって?)成績で出た親はこうなって、当然そういう人が集まった社会はこうなって、そうか、当然いじめはああなって、学校はこう対応して、、、。ね、こういう風に話が進み広がることができるのは、アカデミズムの基本であって、その対応まで見えてくるのはインテリゲンチャの頭の有り様だ。でも、すべての革新/進歩は、常に正しい!アカデミズムから生まれてくるのではなかったか。

 こういうこと言うのが、要するに凄くアカデミックだなあ。少し、やや、うんざりだがしょうがない。こういう風に歳をとって行くのだなあ。