こういう日に家にいて、二階の広い窓から庭を見ている。静かに嬉しい。強い風に轟々と揺れる白樺の先の方の細い枝に、ヒヨドリがバランスを取りながら一羽とまって、キッと横を向いている。かっこいいなあ。
9月15日から2週間いた仙台厚生病院の循環器疾患病棟では、何回か部屋替えがあったけれど、同室の人のほとんどはたいてい年寄りだった。その中に何人か若い人がいて、何気に、僕はそっちの人たちの仲間なのだろうと思っていた。
おじいさんだと僕が思っている人たちの話はゴルフと自動車とうまいものを食いに行くというような内容で、毎日。ゴルフは自分でもするが、どこのゴルフ場が安くて係の人の人当たりが良くて、テレヴィに出ている若い女子プロの本物を見た事がある話。自動車にはいろいろ乗ったがもちろんやっっぱりクラウンですよ。娘には国産の小さいの買ってやったけどね。その(自慢の)車でドライブに行くのは定義山がすごくいいよ。そして長町にはあんまりうまいもの屋がないな、と話は続く。この人だけの話なのかと思っていると、これがほとんどの人と話が合う(合わせられる)のだ。
「で、あんだは何好ぎなの?」 ううむ、基本は彫刻家でオートバイ乗り、お散歩が趣味で家で遊ぶなら玩具の鉄砲を撃つの好き、車はシトロエンの2CVとルノーのカングーで娘はプジョー306、県内でドライブするとしたら柳津辺りかな。そしてもちろん美味しい昼飯は北六のGラディTウドでしょう。話が噛み合ない、というより、使っている言葉の意味が全然ずれている。そしてこれは年齢を問わずずれていて、僕は全体として、(日本では)やっぱりなんだか変な人なのかなあ。
そうして驚いた!事に、こういう個人の経験に基づく話以外の一般的な歴史経験では、昭和26年生まれの僕は、むしろ終戦の時期を知っている人の方(すなわちこの話でのおじいさんたち)に含まれるのだった。
舗装されていない家の前の道(竹駒神社のすぐそばだから結構街のまん中だ)の両側には、側溝ではなく細い堀があって、そこに台所などの排水を普通に流していた。その(ホコリっぽく雨が降ると水たまりだらけになる)道路は、馬車が肥樽を荷車に積んで運んでいたから馬糞が普通に落ちていたし、そこを学帽をかぶった小学生がゴムのタングツをはいて、オンパン(温飯)器で温める麦飯(色が黒く銀色に光るのだ)弁当(四角く深い黄色いアルマイト製)を持って通っていた。僕の母はちょっとハイカラだったので、僕と弟は普段半ズボンをはかされて、その頃の岩沼では少し恥ずかしかった。家の近くでは、向かいの目黒米屋の前にしかコンクリートのたたきがなくて、そこでみんなでパッタをするために場所取りをするのが、早く帰ってくる小さい小学生の仕事だった。そこのコンクリートの上にかかっていた屋根を支える柱と、街のブロックの反対側にあった木の電信柱とを陣地にして、僕の住んでいた(新町という字の)街全体を使った陣取りを(子供会単位で)戦ったりできた。何しろ陣地を繋ぐメインの道路は国道4号線なんだぜ。いやはや、たった50年前なんだけどねえ。だいたいみんな使われている言葉の意味わかった?
こういう話は、後期高齢者の人たちとは何の問題もなく通じるし混ざれる。でも、僕よりほんの少し歳下の人たちとは、突然ほとんど通じないのだった。
で、せっかくこんなに深く濃い生活体験を持っているのに、なぜ大人(歳とると)になるとゴルフとクラウンと(長町の)MルキーWエイになってしまうのだろう,というのが僕にはわからない。仕事柄、こういうのが、実は深い所でこれまでの美術教育の失敗だったのではなかろうかと思う。今のままの図工美術教育を続けていると、また同じような世界が続くことになる。おっとそうか、その方がゴルフ屋さんとTヨタとMルキーWエイが儲かるわけだからからこれでいいのか。