2011年11月3日  高い薄曇り。ホンワカ暖かい乾いた空気。


自分が他人と違うことこそが
みんなそこにいるということだ。
みんなと少し変えてみる。
そういう世界が普通の社会。


10月の初め頃に書いて以来の更新だ。前に書いて以降、今日まで、もちろん連日忙しく様々な状況が起こった。美術館は通常運営を続けてみる練習のような展示をして10月の末からフェルメール展。フェルメール展が美術館で始まって、始まったことによってそれを巡る様々な状況が起こり、気の弱い素直な僕?はいちいち動揺していた、のかなあ?今の所、体調は良い。が、気分はあんまりUPではない。ふと老人性鬱かなどと思う。本当にそうなってしまって、お医者さんに行ったりしている友人もいるから、あんまり大きい声では言えないけれど、という程度だが。

古い友人の家に行って、ゆっくり昼ご飯を食べた。彼の家はアイランドキッチンで、そこでおかみさんと一緒に、様々料理をしながらお話をしつつ、出来た物を皆で食べ話をした。ううむ、こういう時間が僕の家では作れない。テレビがなくても充実した時間が自分の中で過ぎて行く状況。しばらく忘れていた。

何回か市民センターの老荘大学によばれて行って、フェルメールを巡って、美術の見方のお話をした。ソアト(SOAT)というNPOの理事になった。理事会に出て、それまでの理事の人達と美術を仲立ちにもっと社会的な部分の多い話をした。来年度の人事を巡る様々な打ち合わせや相談をいろいろな人(主に僕より職業上の地位が上の人)とした。それを巡って普及部の同僚と話をしたり聞いたりした。今書いてわかったのだが、要するに、僕以外の普通の(と言ってもそれぞれはそれぞれの専門家なのだが)人達と話をしたということだ。数日前、自分が最近作ったジュエリーをなんとか世間に売り出したいのだがと言う、ものすごく純真で素朴な質問をしてきた、高校の同級生のSa君(彼も物凄い人生経験と実践体験の人だ)と、曖昧な世界をクリアに話す、とどめのような話をした。
すべてほぼ仕事なのだが、なんだかゲッソリ疲れた。今まで気にしていなかった、何かに気付いたのではないか、と直感的に思う。ここしばらくそれ(気付いたもの)は何だろうと考えているのだが、うまく言葉になってこない。

普通の人?にとって、美術はほとんどなんでもないことなのだなあ、と思う。ましてや、その教育なんて。ふと頭を上げて考えると、僕にとって美術は宗教のような部分にあって、困ったり悩んだりした時にそこに戻ると、たいてい答えが既にもうそこにある物だったりするのだが、皆には、まったく違う物が(ある特定の神様との関係という意味ではなく)宗教だったり、又は、宗教的な意識とは関係のない生活ですべてうまくいっていたりしている様なのだ。ということが見えたということか?

僕はここ30年ずうっと美術と生きてきて、なんだか知らないうちにどんどん謙虚に慎ましく、正直真剣真摯、という方向にたどり着いた/着いてしまったということなのか。