よく考えると

日本は変な国だ。

金箔を貼った背景に

なんの不思議も

思わない。


2022年7月10日

熱く乾いた空気。僕は好きだ。

ふと我に帰ると、今日は71歳の誕生日で、70歳を過ぎてからの自覚される体力の落ち込みはひどいものだ。と言いながら、昨日は、仙台市内のT児童館で、午前午後の2回、異なる子供たちと同じ活動をしたりしている。こんな日々が、ここ数ヶ月続いている。このブログの更新の回数が減っているときは、へたばって、それどころではないのだ、ということが多くなっている。

とはいえ、活動を頼まれると、体とは関係なく行動が始まって、動きは1日1個と決めているのにその準備を始めてしまう。僕の準備はワークショップのための準備なので、始まるとだんだん広がっていって困る?。今回の依頼は、近くの公園探検で、僕の美術館探検を知っている人たち(今は大人)が、今の子供達といつも使っている公園をどの様に見直せるかが基本にある様だ。企画そのものが、誰のどの辺に、どの様に、どちらを向いてあるのかは、最近は様々聞いても(多分僕には)良くわからないことが多い。最近の日本社会の思考方法と方向に、僕は、もうついていけなくなっている様に思える。さて、


この様な活動の下調べで、最近はとんとご無沙汰の幾つかの博物館に出かけた。自分のために使う博物館と、より広範囲の人たちを対象に見る/考える博物館とでは、様々気になる、違ったことが見えてくる。そのために、博物館教育は特別なジャンンルとしてそこにある。

博物館で研究されていることは、その総合として、今、私たちが生きているこの社会を、個人が深く広く理解するためにある。だから、基礎教育があるのと同じに、そこで見るー知ることができるのは、新たな情報ではなく、その時点でその個人が知っていることの新たな組み直しなのだと思う。美術(館)を含めて。新たな情報に興味を持つことは否定されるわけではないが、だとしても、それらの基本にあるのは、そこにいる個人なわけで、「はい黙って、こっちを向きなさい」と言う情報伝達ではない様に思う。ううむ、できるだけ、正しく、その状況を伝えようとすると、なかなか本題に入れない。


博物館教育で大切なのは、そこでの最新成果を来館者に伝えることだけではない。そこでのその研究成果が、いかに各自の生活の基礎に深く関わっているかを自覚させることだ。だから学校教育と同じに、まず、そこにいる参加者が何歳で、どの様な生活の基礎の上に生きているかを、できるだけ読み取ることの様に思う。そしてそのために展示品だけでなく、その博物館が持っているすべてを使って、そこにいるその人(たち)に、そこにいるその生活が、いかにして組み立てられてきたのかを各自にじんわりと自覚させる。自覚の状態は各自にしかわからないのだから、そこだけを気にしていては話は進まない。


なんとなく気付いた人はいるだろうか?今回僕が出かけたのは、地元の郷土資料館。基本的な土地建物は、昔の歩兵連隊宿舎で、地元の小学生は低学年の時に全員クラスで、訪れるところ。昔が、3日前という自覚の人たちに、70年前の戦争や、その周りの生活をどの様にして伝えようというのか?

もちろん兵舎の展示物=寝台の毛布や銃架の鉄砲は、触ってはダメ。物がわかる=物を舐めるが、やっと終わったばかりの人たちに、最も伝えたいものに触ってはダメから始まるこの物の伝え方は、未だになんの点検もされていない。そもそも何を伝えたいのかを明快にし、ダメなら、そのためにはどうすればいいのかを考えるのが、博物館教育係の仕事ではなかったか? という様なことを、1990年代に口角泡を飛ばして話し合っていたのは、どこに行ってしまったのだろう。

展示解説とは、研究成果をそこに来ている人たちにうまく伝えることだ。博物館ではそこの展示物を見るという仕事しかない。くる人は、広範囲にみんな違う。図工だけで、視覚表現を勉強している人たちに、美術を理解?は、可能か? 10年前の震災ですら、如何に伝えるか悩んでいるのに。という様なことが、博物学や民俗学では、何がどの様になってここまで来ているのだろう。ということさえ、話し合ったことさえない様な展示と方法。

僕も、意識してみたのは、イギリスとアメリカの戦争博物館だけだが、もう少し真剣な考え方がそろそろ示されないと、最近の国際状況を見ていると心配になる。戦争に反対するということは、何をどうすることなのかを子供達自らが心から思わないと、、。どちらに与するのではなく、それを見た人たちが自ら具体に思いを馳せる。それが、民主主義の博物館の仕事ではなかったか。いやはや息が上がる。


民俗郷土資料館と併設されている兵舎は、一体何の、どこが、郷土、民俗、資料なのかを深く広く僕に問いかける。

これの基本に美術館での美術探検があるので、宮城県美にもしばらくぶりで行ってみたのだがーね、こうして活動はどんどん広がるーそれはそれで、様々見えてくるものがあった。最近対話式鑑賞法が、見直されている様だが、僕は、対話式ではないのだなあと深く思ったりしている。その話はまた別の機会に。