2011年 4月14日  ごく薄い春霞の晴。ゆっくり動く暖い空気。


数日前にMacBookに接続して充電中だった ipod shuffle を、机の角に引っかけて突然急に外してしまった。以後、様々やってみたが、どうしても電脳が読み込んでくれない。この震災の影響でアップルショップ一番町は休店中。音楽を聴かないで通勤するはめに陥った。音楽を聴かないで比較的長い時間歩いていると、僕は聞きながら歩いていた時には何も考えていなかったのだということが解った。春の匂いのする空気の中をトボトボ歩いていると、本当にいろんなものが見えてきて、いろんなことを考える。頭を上げて良く見よ!と自分の中の誰か(俺か)が言っている。気がしてくる。

3/11震災以降、様々なメディアで言われている様々なコメントについて、僕が何だか上手く言えない違和感を感じているのは、これまでのブログに書いた。このやりきれないような不思議な気持ちは何故なのかについて、ずうっと考え/気にしてきた。音楽が頭の回りから消えたら、ふと思い当たる言葉が浮かんで来た。

もちろん「頑張ろう○○!」を始めとしたスローガンや、その他震災を巡るすべての意見やいろんな人の行動に、僕は反対だ!や、違う!と思っているということでは、決してない。ああいうことをする/できる人達を僕は心からいいなあと思うし尊敬もする。でも、僕はしない方が良いと思い、できないでかまわないとしてきた。関西での震災の時、僕は「あそこではないここ」にいいて、今回は「実際のここ」にいる。しみじみ少しやはりうろたえながら、実際のここにいる。とにかく、「そういう事ではなんかないようだ」という思いは確信に変わり、いっそう発言しにくくなった気がしていた。何なんだろうなあ、こういう状況に対するこういう自分の態度は?

今朝、ふとひらめいた言葉は「タテマエ」。「本音と建前」のタテマエ。タテマエは、僕、本当に嫌いなんだと確信した。前にもどこかでたぶん何回も書いたように思うが、ある友人が死んだ時に、あなたは葬式に何を着ていくか決められるか?というような生活を土台に持つ人生。その行為がタテマエだと少しも思わずそうできる人生を送れる人を、僕はビックリもし、かつそのため尊敬もする。でも僕は、自分が生きている間は出来るだけ本音で/だけで生きていきたい。歳をとってくると、たくさんのタテマエだと若い頃は思っていたことが、実は深く広く、人間としての本音から出来ていたのだということがわかってくる。だからよく考えるとタテマエに戻ることはママあるだろうが、そういうことを心にとめつつしかし、出来るだけ、出来るなら、本音だけを漏らしたい。本当にそう思うことだけを丁寧に漏らしたい。しなければいけないコトが見えてきているとき、自分で考えて決めると、そのあまりの凄さに、その時の自分では、ただすくみ上がって何もできないでしまうことも起こる。いつでも、どんなにしても、起こることがあるということも肯定できる人でいたい。泣きたい時は泣いてもいいから、でも涙でよく見えなくなってしまっていても、しかし、目を見開いて見続ける人生を送りたい。

あまりの凄さというのは、なんと自分の世界は限定的だったのかと思う、常により広い世界に対する深い反省なのだと思う。
今回、自然は映画で見たことのように想像を具体的に超える。映画で見ていたはずなのに。人災だと言われることだって、僕達はヒットラーをみんなが選挙で選んだのだったということを知っていたはずなのに。人災はたいてい、みんなが、正しい選挙で選んだ結果なのだ。
こういう時、僕はどういう態度を取り、どういう反省ができるのか。反省は後悔ではない。反省は次にどうするのかを常に問いかける態度だ。いったい、お前はどうするんだよ、本当に。と、僕が僕に聞いている。今はまだその答えをヘラヘラ言う時期ではないように思う。