2011年 4月22日  厚い曇り空の春の空気の中を冬支度で出勤。 吹雪になりつつある桜。


3/11のすぐ後、家に手伝いに来てくれた女友達が、長丁場になるとふんで自分の家からコタツも運び込んで来た。僕の家にセットされたコタツは、虚をつかれたような不思議な感覚を僕に与えた。僕の家には畳がない。なのでコタツも(ここしばらく)ない。僕はコタツは嫌いだ。ただ脚を突っ込んでみると、大変不思議に落ち着き、だいぶ生活のリズムが普通に戻ってき始め、特に何もすることが無くなった日の午後、ほぼ半日ぼおっと、コタツの中でとりとめのない話をしていたりした。僕は特にコタツ嫌いというのではないんだったのだなあと思った。ふと思い返してみると、僕がこれまで住んでいた家には、結構ずうっと昔からコタツがないことに気付いた。

ごく小さい頃、僕の記憶の一番最初にあるコタツは、掘ゴタツだ。その頃の僕の家は、ごく普通の街の中にある家(と言っても普通に外便所だった)で、玄関に続く板張りの部屋にコタツはあった。本来ならコタツではなく囲炉裏がある部屋だったのだろうと思う。冬にはウスベリ(薄縁/畳表に縁の付いたござ)を敷き、夏は堀ゴタツの上に板を敷いて、全面板の間になった。コタツは普段食事のテーブルとして使われていて、(相当)寒くなってくると中に豆炭を焚きその上にコタツ布団を描け、布団の上にテーブル天板をおいた。だから冬にコタツになると、テーブルは水平ではなくなり、ちゃんとしないと、すぐ味噌汁とか、とき卵とか、納豆とかがこぼれるのだった。というような記憶がコタツを巡って、僕にはある。コタツに入って食事をしながら、みんなでラジヲを聞いていた。一丁目一番地とか。
祖母(たり)が亡くなるだいぶ前、母(栄子)が家事をコントロールするようになって、僕の家はテーブルで椅子に腰掛けて食事をするようになった。たぶん昭和30年代で、栄子さんは公民館の生活改善運動とか4Hクラブとかの活動に深く関わっていたのだろうと思う。テレビで名犬ラッシーとかが始まっていたのではないか。家にブラウン管の前に小さい緞帳のついたテレビが来たのは、僕が小学4年生の頃のはずで、町内ではそんなに早い方ではない。それまで、月曜夜の月光仮面や日曜昼の七色仮面は「家のむかいの本家」に見せてもらいに行っていた。テーブルは早くからあったが、ご飯を食べながら家族でテレビを見る習慣が始まったのは、僕の家ではだいぶ後からだったように思う。僕の基本的な生活習慣はこのような、コタツのない生活をベースに組み立てられ始まったと、今は言うことができる。僕の意思ではなく、僕の親が、そういう方がハイカラだと思っていて、そういう生活をしたいと思っていたのだと思う。
確認したことはないが、大正時代の後半に生まれた栄子さん達の年代にとって、コタツのない生活=アメリカみたいな生活だったのではないか。

そういう風にして始まったので、物心ついてからの僕の家の「畳のある和室」は特別に作った部屋で、それはそれまで堀ゴタツのあった茶の間のように、生活の基本になる部屋ではなかった。そうなると生活の基本になる部屋はリビングとしか呼べないのだが、アメリカで言うリビングとはまた異なるものだったのだということは、そのだいぶ後にアメリカで生活し再び日本に帰って来てしばらくしてからでないと気付けなかった。「個室を持つ個人が集まって家族を作っている家」という考え方が基本に(何気に)ないと、リビングとは何かの感じは上手く説明できない。コタツの中で脚がふれあって始まる他人との深い関係というような関係の作り方を僕はあまり好まない。この関係を上手く維持できない人は、日本では変わった人と呼ばれてしまうのではないか。僕はそう呼ばれてもかまわないという決心でここまでやって来たのだったなあと、今回コタツを見て新たに自覚した。

栄子さん(たぶん達)が家はコタツなしで行こう(子供の頃家にコタツなかったよという友人は結構多い)と決心したときから、日本は西洋的な個人主義に大きくシフトしたのだろう。でも、コタツは無くならなかった。僕は善し悪しとは関係なく日本人だ。コタツに入ってぼんやりできる感じは、だから大切だし、たぶん自然なのだ。

たぶん、コタツは「自立する個人を自分の生活の中でどのように位置づけるか」という違いの象徴なのではないか。そしてこの感覚の違いは、僕の場合、相当意識的に行われたうえでの無意識が2世代約60年をかけて普通のことになった。具体的には、今回のような大震災が起こった時に、僕が何だか呆然と動けなくなってしまうような違和感を、今の日本の社会に対して持ってしまうというような、今回の今の僕の状況は起こるべくしてこうなったのだ。

実行できるかできないかとは別に、日本人であることはどうしようもないが、日本は意識的に辞められるという自覚と立ち位置を鮮明にしておきたい。その上で、ここにいるということを。