僕は今、

偶然人間をやっているが、

これは全く偶然。

で、僕は、本当は、

何になるはずだったのだろう。


2025年 9月24日

高曇りの乾いた秋の日


アメリカンフットボールが始まった。木曜と日曜の夜、メインの試合がある。実況中継だと、日本では金曜と、月曜の朝9時過ぎ頃からテレビで見られる。

アメリカでは基準時間が3本(地中海側、太平洋側、中部)あるので、時間を少し調整すれば全部一緒に見られる。国も大きいから、雪が降っている氷点下11℃から、気温30℃まで一緒に見られる。氷点下11℃だと、かぶっているヘルメットが、ぶつかって破れるのを去年、僕は実況で見た。


こう言うふうに、僕は、ほぼ毎日呆然と何もせずに時間を過ごしている。こう言うふうな老人の生活をしてはいけないと、様々な方法で言われている。が、うるさい、僕は若い頃に様々いろんなところで一生懸命、みんなのために働いてきたのだから、もう、他人のために働くのは、少し、うんざりなのだ。とは言え、一人でいるのも、テクニックがいる。


と言う様な、御託を様々並べているうち、もう、今日も午後の時間が始まる。少なくとも、ウイークデイの毎日午後4時過ぎには、犬と散歩に出る。僕は、毎日同じ道でも、文句を言わない。犬は言うのかなあ。

毎日同じ道順でも、状況は異なる。状況が同じのも面白いし、突然変な事が割り込んでくるのも面白い。問題は、常に、それを見る側にある。鑑賞のことを考える仕事はこう言うふうに自分に戻る。


思えば、暫く山形に行っていないなあ、なんて言う事をふと思う。仙山線で仙台から山形に行く。山形から左沢(あてらざわ)線に乗り寒河江を経由して終点まで行く。

寒河江にしろ、左沢にしろ、最上川が大きく蛇行している所に昔からある川の港だ。今は重く沢山の荷物はトラックで運搬するから、街は静まり返っているが、ほんの少し前(僕がまだ20歳になる前)まで、重く大きい荷物の運送は船だった。阿武隈川のそばの街に住んでいた子供(僕とか)はよく覚えている。そのため川をよく浚渫していたものだ。

夏休みに、必ず毎年、その浚渫の穴に何人かの子供が堕ち、溺れて亡くなっていた。夏休みが終わると、ひとクラス何人かが必ず減っていた記憶がある。こう言う話も、どんどん忘れられていく。



 人間は地球に生きている。

本来、地球はこんな感じだ。

もうこれは、

本来では無いのだな。


2025年 9月11日

薄い雲が空高くある、晴れ。


まず最初に、最近、一気に(本当はそうでもない?)記憶が悪くなってきている。ま。75歳になんなんとしている、人間の雄としては、ごく普通の事なのだろう。あんまり他人の迷惑にならない様に、暮らしていこう。


今朝、携帯電話が鳴って、うまく取れなかったので掛け直した。登録してある番号以外からかかってきたときは、基本的に取らないのだが、番号の下に石川県金沢市と出ていたので、ううむ、これは何か面白そうと、掛け直してみた。


そうしたら、何か公共の役所の様なところに繋がったが、そこまで。その先は誰も電話していない様だった。出た方も何か少し困っている様だった。こう言うのは、何なんでしょうねえ。ま、必要なら、また電話してくるでしょう。


今日は、岩沼小学校以来の友人と昼飯を食いにいこうと連絡していたので、これから、彼の片町の自宅に自転車で出かけようと思う。



 毎日、結構歩いている。

だがそう言えば、

ここには暫く、行っていない。


2025年 9月 1日

薄曇と言うより晴。湿度の高い暑さ。

軽い風。


自覚とは全く関係なく、時間はどんどん静かに過ぎていく。

いつものとうりの朝ごはんーカンパーニュを薄く切ったの1枚を軽く焼いて、ザータルをかけて蜂蜜で留めたやつ。今日、どこかでジャムを買ってこよう。最近は、僕しか飲まなくなったので、新たに1カップ分だけ手で挽いて、いれた珈琲ーを食べ終えて、食器を流しにまとめ、ふと気付くともう、こんな時間ではないか。ま、僕は食べながら、朝刊を隅々まで読むので時間がかかるのだ。


先日電話が来て、僕がいつも子供達との活動をさせてもらっている小さな林に、その山の持ち主の手入れが入って、これまでとは若干景色が変わった様だと言う。ちょっとそこを観に行っって、その帰りにコーヒー豆屋によれば良いかな?麦わら帽子をかぶって、気温を見ながら、ゆっくり行ってこよう。


 最近観た、

僕の宇宙。

時々自覚しないと、

僕はいなくなる。


2025年 8月11日

湿度の高い、暑い空気。無風。


この文章は8月の初めに書き始めたのに今日はもう中旬になってしまった。最近、僕は年寄り化が進んで、ごく短時間内での物忘れや、体の動きと意識の統一がばらけると言う様な問題が起こり始めている。でも、僕自身は、(みんなには申し訳ないが)あまり気にはしていない。だんだん、ぼやーっと、歳をとっって行くのだろう。嬉しい。


さて、僕は、様々、気移りが激しいとは、思っていた。だいたい趣味が一貫していない。僕が死んだ後、僕の本を整理する人は、ちょっと困るのではないか。

時々、本棚にあるみなれない本に、僕自身が見入ってしまう事がある。すぐ、我に帰るのだが、例えば、モーターサイクルトライアルに関する、ごく初期の英語の本や、知っている人しか知らない、トシ・西山の本なんかは、今となっては、日本のトライアルの歴史研究家にだけ興味を持たれる様なもので、そんな人は、ものすごく少ないだろうから、この本はいったいどう言う運命を辿るのか、そっちの方が興味深い。僕が、時々思い出してゆっくり読んだりしている。むしろ、本って面白いなあと言う方向そのものが、面白い。


モーターサイクル・トライアルといえば、僕自身、最盛期には個人的に4~5台のトライアル専用モーターサイクルを持っていたこともある。嘘だな。僕はコレクションの趣味はあまりなくて、1台をとことん使い込むタイプだったから、ホンダの4サイクルのトライアル車は、結局フレームが割れて=折れてしまって買い換えた、と言う様な使い方だった。その前は、確かヤマハの2サイクルの125CCを200CCに大きくしたやつだったろうか。このブログのどこかにも書いてある様な記憶があるが、一時期確かに、モーターサイクルは、僕の生活の大きな部分を占めていた。でも、僕はオートバイ屋さんにはならなかった。


そう言うふうに考えれば、僕の最も大きな興味は美術表現全般のはずで、作るのも、観るのも、様々深く関わったつもりでいるが、つもりでいるだけで、どこにも何も残っていないーと、僕は感じている。残っている人や物を皆んなに解説する仕事をしていたから、よりそう思うのだろうか。そもそも、その解説する仕事自体が、僕にとっては、相変わらずごく特別な仕事の様に思える。今、外側から静かに眺めていると、ほとんどの人にとって、美術の鑑賞なんて、何の役にも立たないものの様に思っているかの様だ。みんながそう思っている様に思えること自体が、僕の仕事をちゃんとしてこなかった証の様にも思えることになる。いやはや。

今、この歳になって思うに、美術の鑑賞をうまく自分のものにしておくと、見えるものや事を使って自分の今その時をいかに楽しめるかが広がってくる。鑑賞は、美術だけでなく、自分の周りをいかに楽しむかにつながる。何もせずに静かにそこにいるだけで、世界は限りなく広がる、と言うふうに。実は哲学は自分を中心に色濃く絵を積み重ねていたのだ。いや逆だ、身を取り囲む、この有象無象は、実は、深く自分の中から生まれている物で、ふと身を引いて眺められれば、広く深くずうっと広がる世界だった事がわかる。


 確か、今良いことを思いついた筈なのだが、

と言うことは覚えている。

何を思いついたのかは、もう霞の彼方。

2025年 8月 6日

熱い微風。高曇。


ふと我に帰ると、山形に行ったのは、もうしばらく前の事だったのだ。7月25日だったろうか。


今日と同じに、その日も外を歩くと体に悪いと、みんなが思う程の日だった。でも、ま、最近はいつでも平気では、外に出られない。


元々は山形酒田在の木工芸家桑原君の展覧会を観に行く旅だった。酒田まで行くのが、勿論一番面白いのだが、彼等山形の工芸家のグループは、山形市七日町のギャラリーで年何回かグループ展を開く。有難い。電車でゆっくり山形まで見に行く。僕は、本当に電車に乗るのが好きなようだ。


山形駅で、仙山線から降り、東に出て歩いて行く。三津屋だったろうか、帰りに蕎麦を食おうと思っている古くからの店のまえをとおって大きいホテルの前を市役所の方に曲がり、仙台で言う一番町のような古くからの繁華街にある、古くから?のギャラリーで山形の若手工芸家の作品展を観る。何気なく若手と書いてしまったが、だいぶ前からこの人達の作品は見ているし、見ている僕も、もう75歳にならんとしているわけだから、おお、もうこの人たちは若手ではなく、今や、山形の工芸界の中心をなしている人達なのだ。うまいわけだ。


ペンケースを一つ買う。誰もいない日を選んで出かけた筈なのに、その酒田の作家が偶然来ていて、帰りに山形駅まで彼の車で送ってくれた。トッショリをこの日差しの中にオッパナスのが危ないと踏んだ!のが正しいだろう。勿論大変助かった。が、山形そばの昼飯は食いそびれた。


さて、早めに、駅にこう着いてしまったからには、駅の東西通路にある山形豚カツの店で昼飯トンカツ弁当を購入。スイカに残っていたお金を全部投入して、山形から福島までの山形新幹線自由席を買う。最近の鉄道の混乱により、この辺りの新幹線全ての席は自由席。窓際に座って、福島まで、のんびり、景色を観る。いつもの通り福島から阿武隈急行、槻木から東北線で岩沼。


結局、自分の家から岩沼駅まで往復が、最も長く熱い歩行になった。福島駅から、相馬駅までバスはないのだろうか。または、郡山駅まで東北線を動いて、郡山から水郡線で常磐線に繋ぐのも良いかもしれない。もう少し涼しくなったらやってみよう。とは言え、水戸から常磐線で岩沼までは、やや遠いか?


 日本の神様は、

こういう風に、

居る。

あそこにも、

ここにも。

2025年 7月24日

朝から湿った暑い空気。軽い風が吹いている。


何もする事がない時に、何もしないでいることは、僕にとってそんなに辛いことではない。若い時に、注意していないと、しなくてもいい事まで、何かやってしまったりして、周りに迷惑をかけた思いがあるので、歳をとって、何もする事が無いのは、ありがたい事だ。ただ、注意しないと、しなければいけない事まで、最近は、忘れてしまう事があるので、少し困る。困っているか?


明日、山形(市)に山形の若手の工芸展を見に行きたいので、今から、村田街道の石窯のパン屋に来週分のカンパーニュを買いに行く。山形で展覧会を観た後、これまで行った事のない、山形美術館に寄って来ようと思っている。確か、高橋由一の鮭の絵があったはず。宮城県美のは、確か伝=由一だった筈で、何が、ここまで明治の日本人にアラマキジャケを描かせたのかを、じっくり観られると良いのだが。おっ、時間だ、パンを買いに2CVをだそう。


 好きなことをやって良い、

と言われても、

その好きな事のバリエーションが、

そもそも目に見えているのだから、

しょうがない。



2025年 7月17日

湿度の高い、軽い風のある曇り空。


今、市役所から送られてきた市民アンケートを書いて封筒に入れ、ついでにこれを書いている。この次の日曜日に行く参院選挙もそうだが、こういうのに僕は正しく反応する。


今、ふと考えてみたが、僕は、権利ができて以来、選挙権を使わなかったことは、一度もないのではないか、と書いて思い出した、1回だけあるな。あれは何だったか、何かどうしようもない事が起こって、選挙に行かなかった事が1回だけあったはずだ。長年公務員をしていたからと言うわけではない。社会にいるという事の一つのつながりを強く感じるからだ。ま、当たり前と言えば、それまでだが。


今、昼少し前で、これを書いたら、下駄を履いてちょっと歩いて郵便局前(にしか、最近は無くなってしまった)のポストに入れに行く。ゆっくり歩いて行って、帰り道にあるコンビニにより簡単な昼飯を何か買って来よう。





 自覚する事だけが、

僕がここにいると言う

証明だ。

何と細やかな。


2025年 7月 8日

午前中からひどく暑い。高曇。


朝から、床屋に行く気満々。髪と髭は、気ままに充分伸びている。前にも書いたが、生まれて以来行っていた床屋が、代替わりしてしまって、自転車で行くにはちょっと遠いところに移ってしまった。その床屋に朝から出かけた。自動車で。


とは言え、僕の自動車はシトロエン2CVという1937年完成の設計を、二次大戦を挟んで1947年再開、僕のは1987年に製作したものだから、冷房装置とか、そういうものは影も形もない。自動車の基本思考そのものだけの自動車。そもそも今でいう、冷房用エアコンそのものがなかったのか。何はともあれ、暑い時は窓を開ける。最近は空気自体も暑いが、でも、風が入る、というやり方。意気揚々と出かけたが、こん週は月始めなわけで、今日は第一火曜日の休みだった。今、街を一回りして家に戻り、しばらく開いていなかった、ブログを書いている。部屋は冷房が効いているが、汗だく。


今気になって調べたが、ここしばらく、僕は、ブログを書いていない。こんなに書いていなかったんだ。歳を取ると、時間の流れが自分だけの基準になる。いやはや。自分だけの基準って、日本語になっているか?いやはや。


7月の第1土曜日まで、ほぼ毎土曜、児童館の人たちとの活動に呼ばれて、坪沼八幡宮あたりに夕方から夜に出掛てホタルを見たり、電車で東仙台まで出て、歩いて新田の児童館に行き、2歳以下の人たちと砂遊びをしたりした。これは、なんか変な格好の帽子を被った半ズボンのお爺さんが、突如折りたたみの移植ゴテををベルトのポーチから取り出して、普段使われていない砂場で大きな砂山を作ったり、それにトンネルを掘ったりするだけなのだが。立派な2歳児は、すぐには寄ってこず、しばらく遠くで眺めていて、大丈夫そうで、あんまり自分のことを気にしていないようだと分かってからそっと、一緒に遊び始める。小さい人間は普通、自分で遊ぶ人たちなので、彼らが自分で遊ぶ方が大切だと、僕は思っている。何もしないでじっとそこにいるだけの年寄り。助けてくれるではなく助けてあげるための年寄り。

さて、明日は、本当に床屋に行けるだろうか。


 突然、今までできた事が、

なぜか失敗する。

突然、知っていたはずの事が、

なぜか白紙になる。

という年齢。

2025年 6月25日

高曇り。蒸し暑い、夏のように。


今日は水曜日で、明日は朝から、東仙台の児童館で、幼稚園に入る前の人たちとの2時間の活動がある。とても楽しみだ。


本当は、このぐらいの人たちとの遊びは、彼らを観ていればわかるが、こちらが何か計画して、それをするというものとは少し違う。まだ生まれて数年間しか経っていない人間は、知っていることだけが世界、の典型。だから、お爺さんにとっては、観ているだけで嬉しく、楽しい、。何かをさせるのではなく、できることを一緒にする。その上、この時期、できる事は、=したい事。とはいえ、そんなに選択肢はない。というあたりまでがこちらの立場。


何しろ僕と彼らとは、なんと、すでに70年以上の時間が挟まっているので、僕の知っていることなんて、もうすっかりそれは、僕の知っているそれではなくなっている。いやはや、ううむ。だから、楽しみだ。


一応、ケースに入れた腰に下げられる折りたたみのスコップは、持って行く。この暑さだから、彼らと一緒に、まずタープを張ろう。彼らとだけ、一緒に、というのは、最近の日本では、難しい。たぶん、大人がどんどんやってしまうかもしれない。基本、やっていない先の状態を目指して何かするのは、ある年齢までの人間にとっては難しい。その先の状態を見たことがないのだから。そこまでやるのではなく、やってそこまでいく。こういうの、本当は面白いのに。こういうの本当は美術なのに。この辺りに、日本の図工と美術のズレが出てくるように思える。さあ、暑い時期だから、今日も早く寝よう。


 僕の家から

西に見える山。

歩いて行って、帰る。

2025年 6月19日

ぼんやりと暑い、薄曇。


この前に書いた時に引いた風邪が、まだ治らずにいる。そうこうしているうちに、もう明日明後日には、再び児童館の人たちとの活動だ。とは言っても、今回も昼過ぎに出掛けて、夕方提灯に絵付けをし、それを持って暗くなった農道をたどってホタルを見に行く。この前は、雨降りで、どうなることかと思ったが、あのぐらいが、蛍には最高で、これまで、観たことがないほどの量のホタルを見ることができた。あそこにはあれほどの蛍が居たのか。


それはいいのだが、そのあと結構な雨の中を、僕の2CVで、坪沼から岩沼の僕の家まで帰ってくるのが、大冒険となった。村田街道から、菅生に曲がる角を見過ごしー見えなかったが正しいー村田岩沼線まで出てしまい、ま、とにかく這々の体で、家にたどりついた。相変わらず冒険は様々に、色々ある。


そのあたりに引いた風邪は、そのあと意識的に寝たから、だいぶ良くはなったが、まだスッキリとはなっていない。今日は木曜だから、もうしばらく静かにしていよう。土曜の午後、アドレナリンで、自動車を運転できるほどに。


 この前の石の側に、

この石はある。

明治26年、ここは

メインストエリート

だったのか。

2025年 6月12日

高曇。梅雨入り前の

湿った空気の重い風。


毎日快適な生活を続けている、と思っていた。単に偶然が上手く続いていただけだ。先週金曜日、しばらくぶりの春のノッツオを山形寒河江の慈恩寺でした。山形市に住んでいる人が音頭を取って、僕を呼んでくれた。

朝ゆっくりの岩沼始発に座って乗り、仙台始発の仙山線に座って乗り、山形駅から始発の左沢線に座って乗り、寒河江で降りて駅前から寒河江観光協会のワンコインタクシー=500円で慈恩寺へ。ううむ、書いてみるとまるで大名旅行のようで、恥ずかしいが、事実だからしょうがない。この日は、何年ぶりだかのフルご開帳の日で、慈恩寺の持っている全ての国宝の仏像が、観られた。僕の仲間も含め、そこかしこで拝んでいる人たちが沢山いた。


僕は、神様はいると思っている。心から深く、いるだろうと思う。なので、心から、仏像は拝まない。神様が、其処から見えてくるのを待つ。


僕はそんなに深くではないが、様々な方法で人体を立体化する技術の勉強をした。だから、硬い木を削って滑らかに神様の如くに造形する技術を、心から尊敬する。この像を作った人が、ここまで作れた時のその人の心持ちを想うに静かに涙が湧き出てくる。涙が湧き出てくるのを静かに待つ。

確か室町時代以前は、まずノコギリは影も形もない。日本刀を作る技術だけがあった。鑿の切れ味は、ものすごく良かったに違い無い。それに、研ぎ味も。斧、鉈、鉞と、小刀で、これらは作られている。たぶんほぼ柾目の大木だけで、これらは作られているに違いない。たぶん、そもそもの素材の木が美しかったのだろう。

森の中で、これから、神様を創り出そうとするための木を選んでいる彫刻家のことを想う。その選ばれた木が、千年を経て今、僕の前にある。其処にあるだけで、すでに充分神様なのに、静かに目を伏せて、僕を観ている。僕は観られて大丈夫に生きて来ているか、とつい自問してしまうというようなことを延々と繰り返す。

そのような一日を過ごした翌日、朝早くからいつもの児童館の人たちと、坪沼の八幡様の裏の森で、一日活動をした。昨日の次の日だから、僕は充実して活動を行った、でも、誰も、そんな事は知らない。自分で2CVを運転して朝から出かけ、夕方。コタコタで帰って来た。

日曜日の夕方はなんでもなかったのだけれど、夜から調子が下がり始め、月曜日からは、完全に風邪っぴき。一日完全に寝込んだ。しかし、その週の水曜日は、3ヶ月に1回の前立腺肥大の検診と治療が、長町の私立病院で予約済み。暫くぶりで引いた風邪はだいぶよくはなって来たが、マスクをして急いで出かけ、3ヶ月分の処方箋をもらって帰宅。そういうふうな深く静かな週末だった。



 これは鬼石。

とある山の中にある。

誰かが、ずうっと昔、

ここに持って来て、

置いて行った、と僕は思う。


2025年 5月27日

厚い雲の高曇。暑くなく寒くなく。


昨日、石巻の和渕という所に、星真子さんの彫刻展を見に行った。

何回も言っているが、僕はあまり美術展を観に行かない。作品を取り巻く様々なことが僕を美術展に惹きつける。石巻の和渕字和渕町鈴寛ギャラリー。星さんすまぬ。彼女の作品よりこのギャラリーの有り様=住所が、僕を強く惹きつけた。石巻のJR駅前を中心とする石巻の街に行くのが僕は好きだ、なんの用事がなくても、時々行って北上川淵で海鮮丼を食べ、小牛田経由で帰って来たりする。

そして、石巻市は、僕が知っているより、やたら広いことも知っている。石巻にいる僕の友人が元住んでいた所は、ここがと思う様な場所だったが、石巻市だった。岩沼市に生まれて以来ずうっと住んでいる僕には思いもかけない様な広さで、石巻市はある。


ま、とにかく、そういうようなわけで、石巻に住んでいる大学の時からの友人に電話した。彫刻家でもある彼女も、星さんのことは知っていたが、和渕の鈴寛ギャラリーは知らなかった。時間を合わせて、石巻駅前で落ち合った。そうして彼女の車でギャラリーに連れて行ってもらった(それ以外の方法はほぼ不可能)のだが、其処に行く道はうまく説明出来ない。ところどころ見たことのある景色の場所を通ったのは記憶にあるが、また自分で行けと言われても困る。帰宅してから宮城県道路地図で確かめてみたのだが、確信が持てなかった。僕の持っている道路地図が古いこともあるだろうが、3桁国道から逸れて、前谷地に入り込む、辺りまでは言える、という所だ。とにかくその道筋自体が美術的鑑賞だった。嬉しい。


なんだか様々言って来たが、和渕は、星さんのアトリエがある所で、其処を開放する展示だった。ううむ。大きい作品を継続して作る美術家は、そのありよう自体が、日本では、実に美術的な作品なのだと深く実感させられた。特に立体作品は場所を取る。僕たちの国では、街の広場は、日本庭園という方向に、空間が収束してきた歴史を持つからなあ。


僕は、昔から、美術家は世界の仕組みの中では一次産業に携わる人のことであると言ってきた。ほぼ何もないところから、自分自身だけで作品を生み出す人。米を作る農業の人に、米屋さんがあるように、美術作品も、同じ様にギャラリーという米屋で最終的に販売されなければいけない。美術家とはそういう物を作る仕事の人の事だ。星さんの作品は大きい石のものもあり、綺麗に磨き上げられたイタリア産のピンクの大理石を見るにつけ、誰か買って自分の庭に飾っておけば良いのにと思う。


 神社の裏には、

ほぼ不動尊が居る。

ここにも、居る。

この空間を巡る、

深く広いお話。


2025年 5月22日

小糠雨。暖かい。


今日は、朝から、槻木の外れにある個人住宅のギャラリーに、ある彫刻家の展覧会を見に行く。


その予定で天気のいい昨日、朝から。モーターサイクルで下見に出た。日本の郊外の街のそのまた外れだから、小さいモーターサイクルが、一番機能的。オープンは今日なので、昨日は下見。最近、ほとんど外出をしていないから、道順や、その場所を巡る記憶がとても曖昧になっていてーま、歳のせいも、大いにあるだろうがー事前に記憶を確実にしておきたいのだ。記憶はほぼ大丈夫だった。

ほぼ、というのは、場所的には正しかったのだが、前に其処を探している時、ここで、向かいのおじさんに怒られたはずのおじさんの家がなかったり、路のツキあたりだった筈の道が普通の道だったり、間違ってはいないが違うイメージだった。


とにかくここをこういけば着く事は確認した。そのあとグルウッと回り道をして帰宅。途中で食ったラーメンがまずかった、珍しい。今日、雨があがったら、まず石油を満タンにして、出かけよう。


 心から、ほとんどのことは

どうでも良いことの様に思う。

どうでも良いという事は、

ほとんど良い事だ!という事だ。

2025年 5月18日

強く暖かい、乾いた空気。微風。


だいぶ書かずに来てしまった。児童館との活動が始まったり、歯医者に呼ばれたりはしたが、特に困ったこともなく、時間が過ぎている。


昨日から、星真子さんの彫刻の展覧会が石巻で始まっているはずだ。来週は児童館との活動がない週なので、石巻の友人と見に行こうと思っている。一人で行くのには困らないのだが、今回の展示は、彼女のアトリエを含む広範囲の様なので、石巻に住む友人を誘って、見逃しなく充分に見たいと思っている。とは言え、なんだかぼやっとしていたら、時間が過ぎた。ううむ、充分に歳をとって来ている。


暫くこのブログを書かないでいると、誰かが、そっと生き死にを確認に来ることがあるので、特に書くこともないのだが、少し書いておく。


 僕と、僕以外。

僕はそのうち無くなるが、

ここは、

暫くここに居る。

2025年 5月4日

ここ暫く、毎日高曇。


高曇りの空から、時々夏の陽射しがさす。毎日ほぼ何もせずボオッと生きている。心から人ごみが苦手なので、この時期は、ほぼずうっと家にいる。


夕方犬と散歩に出る。最近は長い散歩に出る=なる。阿武隈橋の脇から堤防に出て、ずうっと西に向かい、常磐線にぶつかって下に降り、おお、ここは本当にしばらくぶりだの、食堂オオヒトの脇を通り、土屋先生の作品を道路から暫く眺め、製紙工場に入る引き込み線を渡って直ぐ左に折れ、4号線下のトンネルを潜って産業道路を通って帰宅。

それにしても、土屋先生の裸婦の作品が、岩沼に少なくとも2体あるのは何故なのか。そして、そのうちの1体が飾ってある、市役所で聞いても、誰も何も分からない=知らないのは、何故なのか。


とは言え、公共に展示されている美術作品は、そもそもそういうものなのか。教育大を出て美術館職員を経験してきた爺さんとしては、なんとも、一体どうしたもんなの?である。前に、仙台市内にある彫刻を見る会に呼ばれて、お話をしたことがあったが、最近は、トントその様な話を/も聞かない。


ま、そもそも、美術作品なんか、各自好きに見れば良いわけで、それをめぐる話なんて、どうでもいいわけだが、ここ、この歳になると、作品そのものをめぐるお話ではなく、何故それがその様に其処にあるのかということを誰も知らないという、まるで、ミステリー物語の様な鑑賞というのを楽しめる。いやはや。今更だが、美術は、そういうものだったのだ。


地球の上に居る。

其処は宇宙の極一部だ。

自覚し自戒したい。


2025年 4月24日

高曇りの空から、薄陽がさす。生暖かい。


先週の水曜日の昼前に、昔の友達の京子ちゃんから、今、(小学校の3年生の時の同級会をやってるるから)竹駒神社の新しいお休み所に来れる?という電話があった。ううむ。もうこの歳になれば、ほとんど、今急がしいからいけないということは無くなるから、急いで靴を履いて出かけた。ありがたい。


暫く前、小学校の時の友達だったみんなで、僕の家に来て、その話が出て、その時は僕の家に来て良いよと言ってあったのだが、そうは言っても、突然人の家に行って、みんなでお茶を飲むというのはどうかと、それは思うよな。思わないのは僕だけだろう、多分。そういうわけで今日、電話が来た。


僕の家から竹駒神社までは歩いて5分もかからない。新しくできたお休み所の端っこのテーブルに、女の人達が4人いて、サイくんここここと手を振っていた。でも、暫くぶりに会っても、すぐに誰が誰かわかるもんなんだなあと、不思議な気がした。突然皆んな小学校3年生。

ウエイトレスが、メニュウを持って来て、僕は軽い昼飯を頼んだ。その後、駐車場の北側の喫茶店に席を移して、暫く皆んなで珈琲を飲んだ。


僕は、こういう時の話題に疎い。思えば、岩沼小学校を出ると、そのまま僕は母の出身校であった仙台の五橋中学校に行き、その後仙台一高、宮城教育大学と、ずうっと仙台に(列車や)汽車通学をしており、大学を出るとすぐニュウヨークに(生まれて初めて乗った飛行機が、ニュウヨーク行きーホノルル、ロサンゼルス経由ーだった)行き、帰国するとこれまたそのまま直ぐ宮城県美術館で働き、だったから、地元のみんなとは本当に暫くご無沙汰だったのだ。

こういうふうに改めて書き出すと、一体、僕は何をしていたのだろう、ま、確かにとにかくずうっと、僕には息注ぐ間も無く面白い毎日ではあったのだが。でも、皆んなと共通する話題は本当にほぼ皆無。大体こういうふうに振り返ることが、思えばほぼ初めて。いやはや。そうか、そういう人生だったのだ。 

 

もう常に

杖をついて歩いても、

普通な歳になったのだ。

良い杖もあるし。

2025年 4月19日

暖かい乾いた空気。枝の先が少し動くのが見える風。


昨日、本当にしばらくぶりに仙台に出た。展覧会を見、駅前の本屋を回り、帰宅。展覧会は、@SARP。駅から、全て徒歩。1万4千歩プラス。


SARPに行く時は何回行っても、何故か道を間違う。火星の庭の向かいから北に曲がるのはまちがわないのに、その先があとで考えると何故そう行くのか分からないのだが、あっちこっちで曲がり、何故か素直に辿り着けない。今回も、早坂輪業本店が出て来て、これはすごく間違ってると自覚し、入り口まで戻った。

ううむ、そうしたら、すぐそこだった。こういうのをつい楽しんでいる自分を自覚する。これがいけないな。何回も、案内状の地図を見たのだが、何故か自分の見たい所は、その地図からは少し外れている。この辺りは、もう目を瞑っても分かるはずなのに、これが、歳をとって来たということなのだろう。


若い人がする視覚表現は極力何も考えずに対面する様にする。そうして一回りしてから、一枚ずつ読んでいく。そんなにたくさんの表現を見ているわけではないが、自分以外の人の表現を読むのは、大変だ。読むからだろうか。でも、まあ、それも他人の表現を見る楽しみだ。当たり前か。他人の表現を見ながら、自分の表現に思いをはせる。枝の先を軽く揺るがす様な表現。問題は、こっち側の揺るぎ様な訳だから、揺らいでいる枝の自覚は、その枝にしか分からない。いやはや、嫌な客だ。なんてことを思いながら歩く。


今日も、そういう意味では、良い天気だ。