まずその逆を考える。
合理化する。
そこで使うために学ぶ。


2019年 7月16日
うっすら寒い。
湿った空気の雲り空。

最近(いわゆる)美術展は、気をつけて寄らないー見ないでなくーようにしている。

基礎教育の時期から行われる「美術のような図工」によって、生活の中にある極普通の美意識が、各個人に(意識的に)意識化されないこの国にあって、日本の美術界は美術人によって(のみ)保たれている。私が私として、とにかくここにいることを意識すること自体が、今となっては自分の美意識の確認の行為だ。サブカルチャーが成立するためのカルチャーはどこに行ってしまったのだろうか。

なので、ある日電車に乗って、美術館に「市高校美術展」を見に行った。
完全な抽象画は1点。
具象画の再現技術のピクセルが高い人がこれまでよりは多くなった気がする。
同時にピクセル集中度の焦点をどこに持っていったらいいのかは、どんどん忘れられているようだ。具象とは何かを問わず。
多分なぜ絵(など)描くのかについて、大人が考えなくなってきているのではないかと思える表現が多かった。彼らのせいでなく。
描くときのピクセルの集中度は、抽象、具象で同じなのだということを誰か彼らに教えればいいのにと、思う表現が多かった。

表現って、まず、見つめ続けたい対象を見つけ出すことから始まる。見つめ続けたいものに対してこそ、ピクセル数は上がるのではないか、多分。見つめ続けたいものに対してのみピクセルの上げ方を気にすることができる。そうすると、ピクセルが上がったことでのみ、見えるものがあることに気づける。

最近同じ家に住んでいる娘家族が、若い柴犬を飼った。時々一緒に散歩に出る。よくできた犬なので、僕でも一緒に出かけられる。時々止まって草むらの匂いを嗅ぐ。僕の世界を見るピクセルが少し拡大する。そういうのに気づけるが嬉しい。
美術館が始まった頃、様々な表現家を呼んで、様々なワークショプをした。確かその中に犬の地図を作るというのがあった。それがいかほどのものやことであったのかが、70歳になろうとしている今、深く自覚される。拡大する世界を自覚するのが嬉しい。