絵を見ている時が、
一人でいる時だ。

本を読んでいる時も、
一人でいる時だ。

一人でいる時の基本は、
美術で学んだ。


2019年10月29日
高曇り。乾いた寒い空気。

僕は大分前から、見る行為は、常に見る側にあると言い続けてきた。
最近、池澤夏樹の小説を読んでいる時に、アボリジニのおじいさんが、オーストラリアの荒野の中の小高い丘に座って、周りを静かにただ見ている時のことを書いてある文章を読んだ。一緒にいる若者が聞く。おじいさん何をしているんですか? 彼は言う。私は見ているだけだ。
自分が見ることによって自然は自然になる。見なければ。それはそれのままだ。君だって、初めての部屋に行ったら部屋をぐるっと見渡すだろう?そうして初めてそこは自分のいる場所になる。

世界は各自の頭の中に個別にある。僕は、ずうっと言っていたではないか。僕は見ていたか? 

というわけでもないが、いや、なので、この前の日曜日、県下中学校新人戦を宮城野原陸上競技場に見に一人で出かけた。僕の最初の孫がもう中学生で長距離走の選手なのだ。僕は中学生から陸上競技を始めた。僕の父親は高跳びの選手で、母親は短距離走の選手だった。

なので、僕も中学生の時は早かった。いつもトップを争っていて、駆け引きを含め、競技を楽しんでいた。
彼は遅い。スタートから淡々と走り続ける。みんなに抜かされ、誰とも戦わず争わず、とにかく最後まで走り続ける。見ていると、僕は走るをして(見て)いたか?ということが見えてきた。見るは常にこちらにある。自分のために涙が出てきて、不思議な気持ちだった。
あの当時の僕と同じような背格好の男の子が、淡々と青いコースを走り続けている。僕とは違う争い方の走る人が、淡々と距離を手繰り混んでいる。不思議で面白かった。最終周までに、彼は先頭から数人にラップされ、だいぶ離されてゴールした。ゴールすると、みんな拍手で迎えてくれた。まるで僕のための拍手に聞こえる、不思議な気持ちだった。長く生きていると面白いことが起きる。電車で出かけ、大会の最後まで見て、電車で帰ってきた。

11月から、北九州や沖縄に出かけて、博物館教育を巡るお話をする活動が今年も始まる。私は意識的に見るを自覚しているか。