今週末に、美術館講座でお話をする。その準備のつもりで、システム手帳を持って電脳の前に座ったのだが、おう、何ということだ、この前の更新は3月3日ではないか。この前の文には書かなかったけれど、3月1日で、ファイニンガー展が終了した。
今回の展覧会でやったファイニンガーはドイツ系のアメリカ人美術家で、1872年にニューヨークで生まれて、確か1953年に、アメリカでなくなった、絵を描く人。20世紀画壇の巨人とか、いろいろ言われているが、僕の記憶に残ったのは、空をキュビズムで描いた人というあたり。僕らと同じに、世紀の変わり目の時代に活動をした。ほぼ1世紀前に、世紀を超えてモノを見ていた。自分を振りかえって、僕らはどうなのだろうかと深く考えさせられた。
1900年を過ぎたあたりに人間は歴史の中で初めて抽象を見ることが出来るようになる。ということはそれを描くこともするようになる。その頃に、絵を描き始めようと決心する人の気持ち。
目に見えることは、全部自分の頭の中にあることで、それは、全部一緒に入っているわけだから、簡単に言えば、グチャグチャなのだということに気づいたときの感動。でも、見えるものはそこにある具体的な物で、しかしその具体的なものを巡って、自分の頭で見ているものは、まったくグチャグチャなモノとしかいえない形。いやはや回りの風景、どんな風に見えたんだろう。
この辺りを巡って、学芸員としつこく話をしてみたら、遠近法などというものも、僕がそう考えて、そう思って見ているから、遠くのものは小さくなって行くのだと言われてしまったりする。歴史的な東洋画(僕たちの遺伝子はこちらだ)では、道は遠くなっても細くなって消えてしまったりはしない。そもそも千年前の日本に地平線ってあったのか?それまで何千年も、神の作った万物を見えるがママに描き残そうとして来てたどり着いた100年前の西洋で、具体的に見えるものは実は抽象だけなのだと気付いてしまった青年が、それを絵にするために重ねる努力。その辺りを想いつつ、見て行くと、この展覧会の面白さは、ゾッとするほどリアルに、今の自分のモノの見方を問いつめてくる。この人は1872年生まれなのに、20世紀の巨匠になった。僕は1951年生まれだから、死んでしまえば、間違いなく20世紀の人だったねと言われるわけだが、でも、今、すでに21世紀にも生きていてしまっている。みんながどう言うかではなく、自分はどう生きるかについて21世紀を自覚したい。時間が過ぎて行く中に生きているって、面白いなあ。
というような、なんだかわけわからなくなるような感じの毎日を送りながら、2月の後半に塩竈であった佐立るり子展を雨の中、歩きと電車で見に行ったり、今年10月にある東北造形教育大会の実行委員会の人たち(小中各々)との検討会に出かけて、へらへらと、みんながシンとなるようなことを話したり、もちろん、いくつかの小さい人たちとの活動をしつつ、確定申告に出かけ、いつもの通り医者に行って薬をもらい、頼まれた作文をいくつか書いて送った。
造形教育大会は、いわゆる公開授業の規模の大きいものだと想ってもらえばいいのだが、今年は宮城県が当番で、仙台市教の人たちがやる。様々な状況を判断して、宮城県美術館は出来るだけ手伝うことにした。ただ、美術館が手伝えるのは美術の部分だけで、学校教育や図画工作の部分は、先生たちの方が圧倒的に経験値やその蓄積は大きいのだ。で、学校、教育、図工、美術、美術館、子供、自我、表現というような、各々の言葉の概念の点検が、日本の教育現場では、ものすごく雑なのだ、ということが判明する。実際の授業の現場には、美術館なんか出る幕は無い。始める前の方向付けや、概念固めや、概念崩しや、再構築や、手伝えるとすると、むしろその辺り。始まる前の部分でこそ、美術館の研究の蓄積は活かせる、ということを言って回る。でも、2月までに比べれば、だいぶ余裕を持ちながら、毎日を送っている。