地球の上に居る。

其処は宇宙の極一部だ。

自覚し自戒したい。


2025年 4月24日

高曇りの空から、薄陽がさす。生暖かい。


先週の水曜日の昼前に、昔の友達の京子ちゃんから、今、(小学校の3年生の時の同級会をやってるるから)竹駒神社の新しいお休み所に来れる?という電話があった。ううむ。もうこの歳になれば、ほとんど、今急がしいからいけないということは無くなるから、急いで靴を履いて出かけた。ありがたい。


暫く前、小学校の時の友達だったみんなで、僕の家に来て、その話が出て、その時は僕の家に来て良いよと言ってあったのだが、そうは言っても、突然人の家に行って、みんなでお茶を飲むというのはどうかと、それは思うよな。思わないのは僕だけだろう、多分。そういうわけで今日、電話が来た。


僕の家から竹駒神社までは歩いて5分もかからない。新しくできたお休み所の端っこのテーブルに、女の人達が4人いて、サイくんここここと手を振っていた。でも、暫くぶりに会っても、すぐに誰が誰かわかるもんなんだなあと、不思議な気がした。突然皆んな小学校3年生。

ウエイトレスが、メニュウを持って来て、僕は軽い昼飯を頼んだ。その後、駐車場の北側の喫茶店に席を移して、暫く皆んなで珈琲を飲んだ。


僕は、こういう時の話題に疎い。思えば、岩沼小学校を出ると、そのまま僕は母の出身校であった仙台の五橋中学校に行き、その後仙台一高、宮城教育大学と、ずうっと仙台に(列車や)汽車通学をしており、大学を出るとすぐニュウヨークに(生まれて初めて乗った飛行機が、ニュウヨーク行きーホノルル、ロサンゼルス経由ーだった)行き、帰国するとこれまたそのまま直ぐ宮城県美術館で働き、だったから、地元のみんなとは本当に暫くご無沙汰だったのだ。

こういうふうに改めて書き出すと、一体、僕は何をしていたのだろう、ま、確かにとにかくずうっと、僕には息注ぐ間も無く面白い毎日ではあったのだが。でも、皆んなと共通する話題は本当にほぼ皆無。大体こういうふうに振り返ることが、思えばほぼ初めて。いやはや。そうか、そういう人生だったのだ。 

 

もう常に

杖をついて歩いても、

普通な歳になったのだ。

良い杖もあるし。

2025年 4月19日

暖かい乾いた空気。枝の先が少し動くのが見える風。


昨日、本当にしばらくぶりに仙台に出た。展覧会を見、駅前の本屋を回り、帰宅。展覧会は、@SARP。駅から、全て徒歩。1万4千歩プラス。


SARPに行く時は何回行っても、何故か道を間違う。火星の庭の向かいから北に曲がるのはまちがわないのに、その先があとで考えると何故そう行くのか分からないのだが、あっちこっちで曲がり、何故か素直に辿り着けない。今回も、早坂輪業本店が出て来て、これはすごく間違ってると自覚し、入り口まで戻った。

ううむ、そうしたら、すぐそこだった。こういうのをつい楽しんでいる自分を自覚する。これがいけないな。何回も、案内状の地図を見たのだが、何故か自分の見たい所は、その地図からは少し外れている。この辺りは、もう目を瞑っても分かるはずなのに、これが、歳をとって来たということなのだろう。


若い人がする視覚表現は極力何も考えずに対面する様にする。そうして一回りしてから、一枚ずつ読んでいく。そんなにたくさんの表現を見ているわけではないが、自分以外の人の表現を読むのは、大変だ。読むからだろうか。でも、まあ、それも他人の表現を見る楽しみだ。当たり前か。他人の表現を見ながら、自分の表現に思いをはせる。枝の先を軽く揺るがす様な表現。問題は、こっち側の揺るぎ様な訳だから、揺らいでいる枝の自覚は、その枝にしか分からない。いやはや、嫌な客だ。なんてことを思いながら歩く。


今日も、そういう意味では、良い天気だ。







 自分で決める。

自分で決めた、と思っていた。

ひょっとすると、

それ自体が、間違っていた?

2025年 4月15日

微風。高曇。


最近、車での遠出をしていないので、僕の和蝋燭のスペアが心細くなってきた。

これまで、和蝋燭は、山形の鶴岡、致道博物館に今年の日本刀新作展をみに行ったついでに、鶴岡旧市内に古くからある和蝋燭店でまとめ買いをしていた。山形の鶴岡まで出かけて、日本刀をじっくり見学し、そのあと昼飯を食いながら、古くからの鶴岡の街並みをふらふら散歩し、ついでに蝋燭を買ってくる。新作展はたいてい秋にあったはずだが、昨年はいかなかった。何故だったろう?長い距離を走るための自動車が、無かったからか。僕の古い2CVで行くのに、僕は何も心配は無いのだけれど、一緒に乗って行ってくれる人が、どうも不安な様なのだ。休み休みゆっくり行けば、そんなに問題はないと思うんだが、そうも言っていられないほどに、僕の2CVの見た目は「きている」様だ。

ああ、それから、日本刀の新作展が、昨年は、僕の家のすぐ側の竹駒神社でもあったことが大きい。何はともあれ、昨年は、地元に、静かにいた。そうして、僕の和蝋燭のスペアが切れ始めた。ううむ。


こういうふうにして、僕も、僕の父親の胞夫(えなお)さんを老人化させていっていたのだろう、と、今、深く思う。老人化はこうして深く潜行する。


 見えると、観える。

知っっているものだけが、

観える。

観えるもので、世界は

できている。

2025年 4月10日

高曇。無風のほの暖かい空気。


最近ふと思い出したのだが、1970年代の後半、3年半ニューヨークに住み、最初の娘も生まれ、自動車の免許も取得できそうになり、家を立てる土地=ニューヨーク市郊外の森の下見もし、もう、日本にもお別れだという心持ちになっていた。では最後に、両親に娘を見せに行って、後はアメリカ人になるだけ。そういう決心で、ごく小さい娘を抱いて、かみさんと一時!帰国した。1979年何月だったろう。こんなに道路、狭かったっけ、というのが最初の感想だった。すぐ帰るつもりだったので、荷物もほとんど開かなかった。


そうして、確か帰国3日目に、宮城教育大学に、同じ様な心積りで挨拶に行ったのだ。最初に、なぜか、三井先生の研究室に行った。

そうしたら、帰国の挨拶もそこそこに、ああ、齋くん、良いとこに来てくれたという話になり、ちょうど今、宮城県で美術館を建てる話があり、君、ニューヨークの美術館にいたんでしょう?ということになった。何回か、様々な質問に、はい、と言った記憶はあるが、詳しいことは記憶に無い。何回か、公式な試験を受けた。そういう試験は、暫くご無沙汰だったから、へんな感じだった。そういう手続を経て、あっという間に、アメリカに帰る方向は無くなり、そのまま両親の家に転がり込んで、様々な手続きをし、日本に戻ってしまった。ううむ。今、無理矢理思い出してみると、なんとも、凄まじい。

何しろちょっとした帰国のつもりだったから、着る物もお金も何もなく、最初の頃は、ほとんどカーディガンか何かで面接試験などに出かけていた。しょうがないので、胸だけは張って行った。どうだったんだろうねえ。両親も、心配だったろうと今は思うが、こういうのが、アメリカ風なのだろうと思っていたのだろうか。今となっては、二人とも死んでしまったので、聞く術もない。


ある意味、そういうふうにして、宮城県美術館は、僕の中では始まった。


僕が今、ここにいる。

これまでも、ここに居た。

でも、その自覚が、

ごく希薄だった。 


4月 6日

ホワホワとした高曇り。

暫くぶりに、床屋へ行くことにした。僕が生まれた時、母親の栄子さんが連れて行ってくれたのは、中ん町にあった伊藤床屋だった。


もちろん、僕は赤ん坊だったので、その事を覚えてはいない。でも、その後、ついこの前までずうっと同じ床屋だった。僕は、中学生の時から仙台に通っていたが、ずうっと自宅に居た。社会に出てからは、家を出て仙台に住んでいたけれど、大学を出るまで、自宅にいた。そして、仙台に住んでいた時も、床屋に行く時は、岩沼に帰って来ていた。


大学を出た後、ニュウヨークに暫く住んでいたこともあったが、その時はおかみさんの明美さんに切ってもらっていた。その頃の写真を見ると、ものすごく(髪で)頭のでかい僕が写っている。僕の髪はすごい癖っ毛で、なんだかあっちこっち勝手に伸びていくので、切るの大変だったろうと思う。で、とにかく生まれた時から、ずうっと床屋は伊藤床屋。


伊藤床屋ももちろん代替わりをして、最初の頃のお父さんから、その息子さんになった。彼は僕より10歳ぐらい年上だったが、ガンになってしまいこの前亡くなった。その後、彼のオカミさんさんが変わって僕の髪を切ってくれていた。そして、しばらくぶりに伊藤床屋に出かけたら、シャッターが降りていて、廃業します、という貼り紙。


最後に行った時、彼らの息子さんが手伝っていたので、ああ、次からは息子さんがやってくれるのだなと、なんとなく思っていたのだが、その気配一切無し。廃業してしまった。されてしまった。ううむ。


僕の髪の毛は、最近、薄い。禿げている。自分には見えない後ろ側だけ、少し普通にある(ようだ)。

髪の毛ない人の床屋って、難しいのではないか、と、僕は思っている/思う。ほぼ無い、より、やや有る方が、より難しいのではないか。ま、書いて(読んで)わかる様に、僕はちょっと、深く動揺した。


歳をとると、周りが先に死んでいく時がある。言い方がへんだが、様々なところで書いている?とうり、僕は長生きをする気は無い。だから、長生きをするための運動や体操や、サプリメントや、何やかにやはしない。だが最近、周りのぼくより若い人が亡くなっていく。どこか、ある境目があって、そこを超えると、一気に、周りの人が亡くなっていくのだろうか。ううむ、こういう歳のとり方が有るのだな。


何はともあれ、生まれてからの床屋が廃業してしまったので、僕は、新たに床屋を見つけなければいけなくなった。ううむ。唸ってばかりだ。


犬のゴローと夕方の散歩をする道筋に、新しい床屋がある。僕の家から、3回角を曲がると着く。なんのきっかけもないけれど、行ってみた。

髪の毛より、髭や何やかにや、顔を剃ってもらいたかった。僕とほぼ同じ年頃の男の人がやっていた。先客がいた。いつもの文庫本を持って行ったので、それを読みながら少し待って、やってもらった。特にどうということはないので、これからは、そこにいくことになるだろう。

この歳になっても、新しいことが起こって、ごくなんでもないことに様々楽しみながら、生き続けていくのだろう。