僕はここに居る。

向こうに見える青は、

おお、宇宙ではないか。

僕はここに居る。

2024年 2月19日

寒いのに、生暖かい?空気。それが、庭の木を揺らしている。


基本的に僕は、一日ぼうっと一人で時間を過ごしているのだが、時々昔から知り合いの若い人が寄ってくれることがある。ありがたい。想えば、僕が会いに行きたい僕より古い人たちは、もう、皆んな亡くなってしまった。

この前来たS君は様々話したあとに、僕が昔書いた「大きな羊の見つけ方」は、まだありますか?と聞いてきた。この本はネットでは、まだ探すことができるとのことだったが、彼が見つけたときは7千円だかしたそうで、僕のところに尋ねてきた。ううむ、すまぬ、あります。自費出版だから税込1000円、今、400冊くらいまだ手元にあるのではないかな。

本当に時々だが、僕も今だにこの本を読む。読むたびに、訂正したり、変えたりしたくなるところが出てくる。でも、こういう本(文章)は、たぶんそれをやっていたらいつまでも終わらないのだということはわかる様になった。この手の本はそれが出た時の世界なのだ。世界は刻々と移る。最近は字の如く刻々と移る。


周りの世界を鑑賞するとき、古い人が若い人(達)と出来ることは、「そこに見えることをめぐって世界を掻き回すために共有できる世界まで戻ること」である。

前に、沖縄だったか九州だったかで、博物館教育の講義をしていたとき、たしか奄美大島だかの博物館の学芸員が、「最近島で古い日本の貨幣(和銅開宝?の様な)が見つかったんですが、この凄さをどう言うふうに、今度来る島の5年生に話したらいいでしょう」と質問して来たことを思い出す。

まず考えるべきは、5年生と共有できる世界はどのあたりだろうか、である。しかも、奄美大島?の。もし彼がその島に住んでいて、小学生の親だったら、彼はすでに答えを持っている。

無知を恐れず言えば、何気なくやっているが、貨幣を使って経済=世界?が動くと言うこと自体が、実は、ものすごいビックリなのであって、そこさえ気付ければ古い貨幣が見つかったことの深さ広さは、一つの知識が増えることを大きく超えて深まる。と言うふうに。


ここから始めれば、博物館の存在意義を含む、これまでの物をとっておく意義ーなどと言うより単に面白さでいいと思うが、私たちが今ここにこうしていることができる広い肯定感に対する喜びの様な物を感じられる。こう言うあたりが小さい人達と一緒にする博物館教育の面白さだと思う。