私が見ているもの。

私が見続けたいもの。

見続けたいもの。


2015年 4月15日 
乾いた空気。
雲が白く輝く青空。無風。

昨日から宮教大の授業が始まった。週1回火曜午前、美術による表現A。基礎教養科目、美術専攻以外の2年生以上の人達対象。これから6月初旬まで毎週1回先生をする。というふうに相変わらず毎日なにやかにや忙しそうに動いている。時々(たいていは水曜日)全く何もしなくていい?日がある。今日もそういう日。で、ブログの更新をしようとしている。
でも普通、そういう日はクタリと疲れが出て、1日ぐだぐだハリウッドのアクションDVDなどを見てアッという間に夜になり、深い反省のうちに寝るということの方が多い。本当はその日、庭の草取りをすべきだったのに、今日も。

そういう毎日の中で、最近出勤日にひどい寝坊をした。目が覚めるともう家を出る時間。朝飯抜きで電車に飛び乗るというのを1週おきに2回した。でも、ちゃんと始業時間には美術館には着いていた。中学校以来だいぶ長い間汽車/電車通勤をしているが、朝飯抜きでというのは記憶にない状況で、しかも続けて2回。ううむ、何か大きく変わって来ているのだなあと、深呼吸をしてみる。
そうすると、これまで理論とか基本とかという言葉で自分を上手いこと言いくるめて来た様々な事柄のつじつまの、もの凄い基本的な部分がちょっとグラリとして、何か理論を超えて動くつじつまの焦点が一気に合ってくるように見えてくる。この年でこう来るのは辛いのか良かったのか、もう一段引いて見ることができそうに思えて来る。自分でなんとかして来たと思っていることへの他人の力添えの大きさが改めて続々シミジミ思われる。端的に合理付けて来た様々な体験の経験値を、もう一度おさらいしなおして組み立てなおす。こういうふうに昔のことばかり話し始めたら歳を取ったということだと言っていた人がいた。でもしょうがない本当に歳を取ったのだから。
でも点検を始めてみると、確か簡単にできるはずだった集中力はもうあまり残っていなくて、そういうときはどうすれば良いかというような、逃げ道ばかりすぐ思い付いて、それが、又自分のやる気をそぐという悪循環。ああそうか、こういうのが老人力。いよいよ物の見方の変化ををきちんと自覚するときが始まったのだ。

今関わっている丸森大蔵山のワークキャンプはだいぶ進んで来た。僕はこの夏の様々な活動の具体的な組み立てを考え始めている。そのため、4月に入った始めの火曜日、友人のH沢君を山へ下見に連れて行った。彼にはこれまでとは違った観点からこの場所での美術系ワークキャンプの中での自然系人間系ワークショップを考えてもらえないかと思っている。そういう話もしながら、山を充分に一回りして、帰宅。
その週の木曜、美術館に出勤したら、愛用のポケットナイフがいつもある腰のケースの中になかった。フランスのラギョールという会社のごく普通の形のナイフ。何回も研いで刃が短くなって来て、シースに入るように刃そのものを少し短く整形しなおす程愛用して来た。ケースの中にあるのを覚えているときからそれまでの間に様々な所に行っているので何処で/何処らあたりで落としたかは思い付かなかった。いよいよ寿命だったのだと観念して、新たなポケットナイフ探しを始めた。そうするとなおさら、あのラギョールがいかに僕にピッタリした物だったのかがしのばれた。
今週日曜、春のノッツオ(仲間とする無目的な散歩の会)を大蔵山ですることは先年度のうちに決まっていた。いつもの小学校の先生達と大蔵山を一周した。その最後に、山の中の展示スペースでやっている日石展(手彫りの全国石塔展)に寄った。普通だと寄らない所。そこの、何でもない普通の平場の所にきらりと僕のナイフは静かに何気なく落ちていた。ううむ、ここにいたのか。深い静かな感動。ライアルワトソンが、彼の本の中で、モノと人との深いつながりについて書いている。なくした物と再開することの不思議についてのお話。こういうことだったのだなあ。これからも大切に普通に使っていこう。