孤立する自覚の向こうに、
僕が見るもの。

それは荒野と呼ばれるものでは決してない。



2013年12月30日 

冷たい空気の固まり。その上から来る太陽の光。

今、僕の家は63歳の夫婦二人暮らしがベース。カミサンは一時に比べればものすごく良くなったとはいえ、相変わらず統合失調症で、基本的には自分の世界だけで生きている。僕は、最近のブログでわかるように、これまでの様々な生活様式が原因(たぶん運動のし過ぎではないか)の、体力不足や、集中力不足、老人性物忘れなどに軽くうんざりしつつ、週2回の優秀家政婦紅子さんの助けを借りて、シコシコ忙しがりつつ、本当は何もしないでいる実感の、退職生活を送っている。週3日公立美術館の教育普及部で働き、あと4日は何やかにや忙しい休み。今年は、美術館の年始年末休館日も重なって、12月の中旬からほぼ1ヶ月休み。ふと思うと、こんなに長く給料のために働かなくてもいい状況というのは、結婚以来初めてなのではないか。「君は様々な所で表明してきたように、本当に一人でいるのが好きなのだね?」と、誰か(ひょっとすると自分か?)に試されているような気がしてきている。僕は、小人閑居して不善をなす、のも楽しめるのか?

このところ、岩沼市立図書館から借りてきた本を、立て続けに読んでいる。普段は、通勤途中をメインに、池波正太郎の鬼平、剣客、梅庵の文庫を何回も繰り返し読む。時々池澤夏樹と片岡義男。椎名誠と梨木香歩と佐藤さとるを、もっと時々。最近はハヤカワ文庫のミリタリー/ミステリー系は集中力がついていかなくなってきた。僕は、退職を機会に読み返したいハードカバーの本以外はほとんど処分してしまった。それでも新たに建てた家の、壁いっぱいに作り付けた本棚では入りきらない程残っている。美術館の創作室で公開されているのもまだある。これだけの本を静かに読み返しながら、これからの時間を過ごしていくのだなんて思っていた。まったく、なんと能天気だったのだろう。本って何なのか、人が生きるって何なのかを、僕は全くわかっていなかったのだ。「さてどうしようか」というのが、今年が暮れようとしている今日、考えていること。僕はいったい、何を表現の手段として使おうとしているのだろう。

昨日は栄子さん(母)の命日だったので、一昨日の夜に下の弟家族が、昨日昼過ぎに上の弟が線香を上げにきた。上の弟はもうだいぶ長い間尺八を吹いていて、来年1月15日に仲間とコンサートをする、というお知らせも持ってきた。彼は本来、土木会社の経理専門家なのだけれど、上手に尺八を演奏する。父親が亡くなった時、枕元で静かに吹いてくれて、僕はずうっと気持ち良く泣いていることができた。彼は、既に大師範とかいう普通の尺八吹きの中では一番上の所までいっているのだが「面白く吹ける方が大切で、何段とか師範とかそういう名称とは距離を持っていたいのだ」というような話をして帰って行った。彼はそういう表現を持っている。

この一年多くの人が様々な形で様々な発表をしてきたのを僕は見た。震災以来、これまで僕がやってきたり見てきたりした様々な表現活動に、なんだか不思議な違和感が強くあって、僕は何も発表しない/できないでここまで来た。そうこうしているうち、僕が認識できる小さな世界ですら、どんなにひいき目に見ても、人類は絶滅したいのだとしか思えないような具合になってきた。我々は物心ついて600万年。恐竜のように1億6千万年継続するとは思わなくても、地球の上に生まれてしまった生物の1匹として、きちんとした生き方を全うしたいものだ。きちんとって何をどういう風に。来年に続く、だといいが。