2010年12月31日  深い曇り。冷たく乾いた空気。いい気持ちだ。


さて1年が終わる。今12月31日の午後7時半を過ぎたところ。テレビでは紅白が始まった。今日の午前中にカレンダーを張り替えたから、もう今年のことなんか知っちゃいないのだが、まあしかし、色々あったなあとふと思ったので、書き留めておこう。そもそも去年(2009)、今年(2010)僕は大凶だから注意しないといけないと、羽黒山系につながりを持つ友人に言われた。まあ、もうすぐ60歳になるのだから、それはそうだろうなあ、心筋梗塞もやったことだしと思っていた。とは言え、結構色々あったなあ。

心筋梗塞で入れた3個のステントのその後は、5月と11月にカテーテル検査をして、問題ないことが確認された。1月に金沢21世紀美術館、2月に武蔵野美術大学で、美術館教育を巡るお話をする機会があった。それで、何となくこの30年を振り返りまとめる機会ができた。そういうふうなことがあったので、美術館での活動で話す内容も、だいぶ整理されて来て、今まで気がつかないでやって来ていたことも、意識してやれるようになった。12月に山形芸術工科大学で、まるでまとめのような美術館教育についての講義をする仕事がきて、僕の内面の方も、だいぶ整理できた気がする。そういう活動の間を縫って、そのお話のテープおこしされた文の校正や書き直しがあって、それも又大変僕の役に立った。おまけに2011年の1月31日に新たな僕の本が出る。これも、まったくの偶然でみんなが色々やってくれるので、つい一生懸命書いてしまった。別に意識したり、そう仕組んだりしたわけではないのに、ちゃんと、30年のまとめの年になったように見える。だから今年は本当に、ずうっとワープロに向かっていたような気がする。南光台の魔女(いわゆる僕の鍼灸の先生)にも、この脈の出なさ具合はパソコン見過ぎではないかと言われたりした。僕としても、もっとゆっくりとよく考えながら進めたかった。でも一方こうでもしなければ、こうはならなかったろうという意識も確かにある。
でも、今年は、何しろ僕の父親胞夫さんが死んでしまった。様々な細かい問題はあったけれど、まだまだ元気で行くのだろうとタカをくくっていたら突然腎臓癌が見つかって、見つかった時は既に末期で、3ヶ月入院して死んでしまった。親が二人ともいなくなるとはこういうことだったのかの思い深し。人が一人死ぬと起こる様々な手続きは、そうでない時には思いもよらない程凄まじく多い。書類を作るたびに印鑑証明書がいるような手続き。僕が僕で(間違いなく)あることを証明する書類がないと進まない書類。心からする(したい)行動に、形式的で心のこもっていない行動が混ざって来て僕のストレスを増やす。僕はどうも結構まじめで、本気でそれをしたいことだけを(社会通念にあまり関係なく)したいようにする人だったのだということが確認された。そういう事は9月24日に彼が死んで12月29日まで何やかにや様々続いた。振り返ることの多い経験だった。
明美さんは、精神安定剤をキッパリとやめて、甲状腺の薬を定期的に飲み始めた。当然覚醒し元気になり、やせた。ということは、彼女は30年前のに世界に戻ったということで、それはそれで、イヤハヤな生活が始まったということだ。僕らが30台だった頃の常識(卵と肉と牛乳を沢山食べる生活)は今や夢のようなのに、疲れて帰る夕食に両目の目玉焼きが出て来た時の動揺。カミサンと父親の相手をしながら、30年のまとめを考える文章を書いた。
来年(2011)はついに5回目の卯年で、僕は定年になる。数え61歳で厄年だという知らせがお寺から来た。ううむ、しょうがない、これまでとかわらず素直に正直真剣へそ曲がりで生きていくしかあるまい。 なにはともあれこれからも、僕の基本は芸術家ですと言い続けられるようにしたい。