2010年 3月 6日  雨降らず。上着はいらないが,まだ少し寒い。


季節の変わり目だからだと都合のいい理由付けをして,しゃきっとしない毎日を送っている。帰宅して夕飯を食べぼんやりとテレビを見ている。もう様々なスポーツは終わったのに。ダラダラと時間は過ぎて明日の仕事の事などが気になってきて風呂に入り、寝る。という毎日。体調普通。更新停滞。


今週末はやっと休みになった。気になっていた今回の館外活動の顛末とまとめを書いておこう。


武蔵美のシンポジウムだけでなく,昨年末以来呼ばれている様々な話し合いを通して,これまで曖昧なままおいてきた事柄が,少しすっきりしてきたような気がする。青山学院大学の苅宿先生の理論が、これまでの霧を払いのけ始めている。


特に今回の武蔵美での話し合いはワークショップとファシリテーションを巡る話だったのだが,僕の中では,このところ何となくぼんやりと感じていた、近代から現代にジャンプする教育の現状について考える大きなヒントになるものだった。あちこちでバラバラに見えていたものが一気に収束していくことによる新たなダイナミク。その力は様々な所に及び、影響を与え,新たに大きな組み立て直しに気付かせる。


普通(というかこれまで),教育(主に学校教育が中心だったが)は「行動的な教育」と,「認知的な教育」のみで行われてきた,と苅宿さんは話し始めた。絵を描く方法/技法を教え,これは絵だという事を知り(その上で)絵でできることを考えるる,というような。そして、これらはすべて個人の中で完結する。個人の中で完結するから(絶対)評価もしやすい。そして、個人の完結は個人間の競争でより(社会全体の)完結の度合いを高める(と信じられてきた)。

ただ,それらが行き着いてみると様々な問題が出てきた。その結果が今の(具体的な)世の中だ。さて,完結した個人同士の世界で次に考えられるべき教育は何か。彼は「社会構造的な教育」ではないかという。個人同士がある団体の中で力を合わせて何かを成し遂げようとする/できる状態を作り出す練習をする/考えられる教育。

この構図は,神様の世界の再現で始まった美術(近世の美術)が自意識の顕在化を通して,私が見ているものの再現に行き着き、ものすごく個人化していって例えば「モノ派」に至り(近代ーモダンーの美術),これはつまんねえんじゃないの(ポストモダン)となって,表現形式を超えた/気にしないミクストメディアの作品に至る(コンテンポラリ)という,美術の世界にそのまま当てはまる。


そう考えて美術教育やワークショップを見直すといやはや,なんだそうだたのか,だからあれはこうしてそれはああして、ここん所でもう一歩踏み込んでかまわなかったんだ、というようなことが僕の中では起こった。だからどうだといわれると、どうでもないのだが,自分としては溜飲は下がった。しかも,ちょうどこの時に美術館では『高山登展』だし,何となく自分も作品を作りたくなってくるし,人生って不思議にうまい具合なものですね,なのだ。