突然電話が来て、友達が近くに来ているという。

嬉しい。

春が来始めたな。

 2024年1月31日

乾いた、冷たい、微風。


この週末、アメリカでは、フットボールの各リーグチャンピオンシップゲームが行われていて、今では日本でも生中継される。彼の国は広いので、時間帯が3つもあるから、同じ時間開始でも、東海岸と西海岸とでは、ほぼ一緒に実況できる。なので、僕は、朝4時から午後3時過ぎまで、テレビの前に居座ることになる。せっかく書き始めたのに、一時文章が止まってしまった言い訳。

70歳を過ぎてからは、1日一個の活動ということにしているので、こんなにテレビを見た日は、後は休みということになる。


大学に入って本格的に美術を始めた頃、先生達に何回も言われ、今も強く心に残っている事は、概念で作らないー観ないという事だった。とはいえ、僕たちは、概念がなくては自分の世界を理解できない。自己認識を含む世界は、自分の脳にある概念の積み重ねでできている。

でも、これは僕の今の概念だと自覚してそこに今ある物を見ると、ある境界に気付いた途端、世界がぱあっと広がってくる。歳をとってくると、その世界もその概念の内側でしかないという事がわかってくるが、限定された内側ということさえ気づければ、日々の生活は深くー楽しくなる。


ウイークデイの夕方、一緒にいる柴犬と未舗装の田圃道へ散歩に行くのが僕の日課だが、彼が自覚している自我?と、僕が考えている自我との異差を気に留めて歩いて行く。気にしていなくても、彼には彼の世界があって、気になるところで納得する様に行動しながら歩いて行く。地面から30センチ以下の高さの視点。僕の何倍かの匂いと音の、広さと深さによる世界。君は今何を観ているのだろう。君が今いる世界は、どんな広がりと深さを持った形なのだろう。


同じ様に、例えば杉村淳という明治の末に生まれ、油絵の具で西洋画を描いてきたーということは自分の身の回りを観てきたー概念化してきた男子の表現を観る。彼のいたー観た世界の拡がりとと深さ。犬と比べるとは何事かではなく、柴犬と比べる広がりと深さ。


こういうのが、僕が、例えば杉村淳美術館で楽しんでいる状況なのではないかしら。