造形教育の広がりを求めて−私がしたいこと

美術に関して、何かわからないことなんて、みんな(たとえば、この文を読んでいるあなたというような意味で)には、実はないのではないか。美術なんて、ほんとはもう、うんざりするほどよく知っていると、みんな心の深いところでは、何となく思っているのではないか。

 美術は、全ての人間が、全部一人一人違うということを基盤に、人間全体の世界観を拡大してゆくということが存在の意義−仕事なので、未だ終わらずに拡大し続けている。教育の現場で、次の世代に伝えなければいけない、又は、伝えることができることは、ほとんどここのところだけなのに、なぜか、私が知っている範囲では、未だ、上手な絵の描き方だけが(様々表面的な状況や方法は変わってきているかのようだとはいえ)突出して追求され、評価の対象にされているように、美術館から見ている私には思える。
 見た目には、みんなが、毎日同じような生活を繰り返していながら、一人一人違う人間は、一人一人違う生活経験を組み立ててゆく。その生活経験の積み重ねで、その時のその人の世界観−自分を取り巻く状況とのつじつま合わせ−や、人生観−自分の内側で起こっていることのつじつま合わせ−が、一人一人個別に、その人の中にできあがってゆく。まずこの状態が、肯定的に、社会の基礎として存在しないと、私たちが今、(知っていると)感じている美術は、始まらない。
 なぜなら、美術は、その個人の世界観や人生観を表現したものだからである。一人の人間が、そこに、まず、いて(存在して)、そこに自分がいることによって身の回りに起こる毎日の様々な出来事を、現実として受け止め、「ま、しょうがないかな」とか「まったく困ったもんだ」とか感じ、考え、しかし、そこで生活を(たいていは)やめてしまうことなく、何とか様々なバランスをとれるようにつじつまを合わせて、次のまた一日につなげてゆく。その毎日の積み重ねによって作られる、ものの見方、見え方を描いて(表現して)みる。うまいへた、丁寧乱雑、大小、明暗、色合い配置、その他様々の全部を含めて、そこに表出されたものが、全て違うということこそが、私たちの美術がここまでかけて、やっと獲得してきたものなのであって、私が、今、ここにいるということの証明なのだ。
 自分の表現を、私はここにいるということの証明としてみんなに見てもらうという行為には、だからたぶん、人間であるということ以外、何の問題も存在しない。年齢や性別は
もちろん、人種や、障害のあるなしなども、実は何の問題にもならない。今、ここに私がいる。そして私は、このように私の世界を見ている。ただそれだけを、(自覚して)真摯に描いて(表現して)いるかどうかだけが問われる。真摯な表現かどうかということは、自分をいかに解放し、その人にとって本当のことだけを(様々な意味で)「楽しく」表現しているかというほどのことである。真摯であれば、そこに楽しく、思いを込めて引かれた一本の線は、それを描いている私のすべてを、多くの言葉を重ねるより雄弁に、物語ってしまう。
 さて、描いたあなたがそこにいるということは、見ている私はここにいるということでもある。好き嫌いを越えて、誰かが一生懸命描いた作品を真摯に丁寧に見る。うまいへたを越えて、そこに描かれているものを真摯に丁寧に見る。そこにある表現が、美術の作品になるかどうかは、実は、見る側に、ほとんどゆだねられていると言ってよい。私は、今、毎日の経験を積み重ねてきてここにこうして、いる。そしてあなたが、そこで積み重ねてきた生活経験によって表現された、あなたの世界を見ている。私たちの世界観は、本当に一人一人違っていて、いかにもバラバラであるかのように見えるけれど、私たちは人間どうしであるということを知っていて、その大きな枠から出ることはない。その人が真摯に描いた世界観を、こちらも真摯に見ることを通して、私たちは、自分の世界観と人生観を点検し、修正し、どのような形であれ理解することによって、自分の世界の見方を拡大してゆく。このようにして私たちは一人一人違うことを基に、全体について思いをはせ、一体化する実感を持つことができる。
 このことは練習しなければいけないし、いくら練習しても終わることはない。
 ここまで原理に戻って考えてみれば、美術についてわからないことなんか、実はほとんど無かったのだということは実感できるのではないか。最終的に、みんな一人一人違うのだということを尊重して大切に想い、その上で、しかし、みんなで「善く」住むことのできる社会を考えるられる大人を作る。美術は(その基礎としての図工も)、そのまったく基礎にある、自立した近代の市民としてのものの見方を訓練するための学科だったのではないか。造形することだけにこだわらず、私はここにいて、私の見方を持ち、同様に自分の見方を持って考えているまわりのみんなと話し合いながら、多数決だけでは決められないものの決め方について、思いをはせる。最終的な目標(私たちはどういう大人を作りたかったのか)さえあやまっていなければ、あなたの良く知っている、得意の分野を駆使し、様々な方法技術を試みながら、図工の授業を、これまでの経験にとらわれずに組み立てる。これも又、美術が最も得意とする分野だったはずなのだが、、、。