最近観た、
僕の宇宙。
時々自覚しないと、
僕はいなくなる。
2025年 8月11日
湿度の高い、暑い空気。無風。
この文章は8月の初めに書き始めたのに今日はもう中旬になってしまった。最近、僕は年寄り化が進んで、ごく短時間内での物忘れや、体の動きと意識の統一がばらけると言う様な問題が起こり始めている。でも、僕自身は、(みんなには申し訳ないが)あまり気にはしていない。だんだん、ぼやーっと、歳をとっって行くのだろう。嬉しい。
さて、僕は、様々、気移りが激しいとは、思っていた。だいたい趣味が一貫していない。僕が死んだ後、僕の本を整理する人は、ちょっと困るのではないか。
時々、本棚にあるみなれない本に、僕自身が見入ってしまう事がある。すぐ、我に帰るのだが、例えば、モーターサイクルトライアルに関する、ごく初期の英語の本や、知っている人しか知らない、トシ・西山の本なんかは、今となっては、日本のトライアルの歴史研究家にだけ興味を持たれる様なもので、そんな人は、ものすごく少ないだろうから、この本はいったいどう言う運命を辿るのか、そっちの方が興味深い。僕が、時々思い出してゆっくり読んだりしている。むしろ、本って面白いなあと言う方向そのものが、面白い。
モーターサイクル・トライアルといえば、僕自身、最盛期には個人的に4~5台のトライアル専用モーターサイクルを持っていたこともある。嘘だな。僕はコレクションの趣味はあまりなくて、1台をとことん使い込むタイプだったから、ホンダの4サイクルのトライアル車は、結局フレームが割れて=折れてしまって買い換えた、と言う様な使い方だった。その前は、確かヤマハの2サイクルの125CCを200CCに大きくしたやつだったろうか。このブログのどこかにも書いてある様な記憶があるが、一時期確かに、モーターサイクルは、僕の生活の大きな部分を占めていた。でも、僕はオートバイ屋さんにはならなかった。
そう言うふうに考えれば、僕の最も大きな興味は美術表現全般のはずで、作るのも、観るのも、様々深く関わったつもりでいるが、つもりでいるだけで、どこにも何も残っていないーと、僕は感じている。残っている人や物を皆んなに解説する仕事をしていたから、よりそう思うのだろうか。そもそも、その解説する仕事自体が、僕にとっては、相変わらずごく特別な仕事の様に思える。今、外側から静かに眺めていると、ほとんどの人にとって、美術の鑑賞なんて、何の役にも立たないものの様に思っているかの様だ。みんながそう思っている様に思えること自体が、僕の仕事をちゃんとしてこなかった証の様にも思えることになる。いやはや。
今、この歳になって思うに、美術の鑑賞をうまく自分のものにしておくと、見えるものや事を使って自分の今その時をいかに楽しめるかが広がってくる。鑑賞は、美術だけでなく、自分の周りをいかに楽しむかにつながる。何もせずに静かにそこにいるだけで、世界は限りなく広がる、と言うふうに。実は哲学は自分を中心に色濃く絵を積み重ねていたのだ。いや逆だ、身を取り囲む、この有象無象は、実は、深く自分の中から生まれている物で、ふと身を引いて眺められれば、広く深くずうっと広がる世界だった事がわかる。