この前の石の側に、この石はある。
明治26年、ここは
メインストエリート
だったのか。
2025年 6月12日
高曇。梅雨入り前の
湿った空気の重い風。
毎日快適な生活を続けている、と思っていた。単に偶然が上手く続いていただけだ。先週金曜日、しばらくぶりの春のノッツオを山形寒河江の慈恩寺でした。山形市に住んでいる人が音頭を取って、僕を呼んでくれた。
朝ゆっくりの岩沼始発に座って乗り、仙台始発の仙山線に座って乗り、山形駅から始発の左沢線に座って乗り、寒河江で降りて駅前から寒河江観光協会のワンコインタクシー=500円で慈恩寺へ。ううむ、書いてみるとまるで大名旅行のようで、恥ずかしいが、事実だからしょうがない。この日は、何年ぶりだかのフルご開帳の日で、慈恩寺の持っている全ての国宝の仏像が、観られた。僕の仲間も含め、そこかしこで拝んでいる人たちが沢山いた。
僕は、神様はいると思っている。心から深く、いるだろうと思う。なので、心から、仏像は拝まない。神様が、其処から見えてくるのを待つ。
僕はそんなに深くではないが、様々な方法で人体を立体化する技術の勉強をした。だから、硬い木を削って滑らかに神様の如くに造形する技術を、心から尊敬する。この像を作った人が、ここまで作れた時のその人の心持ちを想うに静かに涙が湧き出てくる。涙が湧き出てくるのを静かに待つ。
確か室町時代以前は、まずノコギリは影も形もない。日本刀を作る技術だけがあった。鑿の切れ味は、ものすごく良かったに違い無い。それに、研ぎ味も。斧、鉈、鉞と、小刀で、これらは作られている。たぶんほぼ柾目の大木だけで、これらは作られているに違いない。たぶん、そもそもの素材の木が美しかったのだろう。
森の中で、これから、神様を創り出そうとするための木を選んでいる彫刻家のことを想う。その選ばれた木が、千年を経て今、僕の前にある。其処にあるだけで、すでに充分神様なのに、静かに目を伏せて、僕を観ている。僕は観られて大丈夫に生きて来ているか、とつい自問してしまうというようなことを延々と繰り返す。
そのような一日を過ごした翌日、朝早くからいつもの児童館の人たちと、坪沼の八幡様の裏の森で、一日活動をした。昨日の次の日だから、僕は充実して活動を行った、でも、誰も、そんな事は知らない。自分で2CVを運転して朝から出かけ、夕方。コタコタで帰って来た。
日曜日の夕方はなんでもなかったのだけれど、夜から調子が下がり始め、月曜日からは、完全に風邪っぴき。一日完全に寝込んだ。しかし、その週の水曜日は、3ヶ月に1回の前立腺肥大の検診と治療が、長町の私立病院で予約済み。暫くぶりで引いた風邪はだいぶよくはなって来たが、マスクをして急いで出かけ、3ヶ月分の処方箋をもらって帰宅。そういうふうな深く静かな週末だった。