2008年 10月20日 乾いた空気の秋の一日。でも、ストレスの多い一日。

 先々週、友人のKれない子さんのiBookシェルが動かなくなって、新しいマックブックに換えた。丁度彼女の誕生日が近くて、ついでのお祝いに、iPodシャッフルをプレゼントした。アップルストアに一緒について行って、古い電脳から新しい電脳への移行の手順を見せてもらった。感心してみていたが、僕のオレンジ色のiBookシェルは、彼女のより何代か前のもっと古い型だけれど、何しろワープロとメールにしか使っていないわけで、だまだ大丈夫だろうと思っていた。先週の週末の朝、突然(こう言うのは、たいてい突然なわけだが)そのiBookが立ち上がらなくなった。アップルストアの小気味よい対応に感心していたし、最初にiMacを買ったときに、その対応をしてくれたT井君という店員さんに、ちょっと迷惑をかけていて心苦しい想いがあったし、なんだか示し合わせたようにマックブックがモデルチェンジなんかするので、冬のボーナスのずいぶん前だけれど、新しい、電脳に換えることにした。

 で、もちろんこの文章は未だ古いiBookで書き出している。様々な移し替えは、アップルストアのお兄さん達に助けてもらって、基本的にはすんなり行ったのだけれど、たとえば、新しいマックブックはある理由でイーサネットだけでなく、モデムでも電話線に繋いでメールがやり取りできないといけなかったのだが、何しろ子のアドレスを取ったのは、もう10年以上前で、ドリームネットって知ってるという具合。もう今はどこに行ってしまったのか本人も忘れていた。そこんとこをあちこちひっくり返してなんとか書類を見つけ出し、でも様々電話をかけて、なんとか登録ネームとパスワードにたどり着き、なんていうことをやった(勿論ご存知テクニシャンMr.Amee登場でなのだが)のだが、僕の家の電話はダイヤルをクルクル回すやつなので、音声録音対応のやつだと途中でうまく繋がらなくなったり、くそおっと焦ってかけた携帯電話のバッテリーが途中で切れたり、なんだか、ほんんとにストレスたまるなあ、こういう作業。とはいえ、新しいマックブックを手に入れたことで、前からあったiMacの使用範囲が大きく広がったようだ。ますます目が悪くなるなあ。

2008年 10月14日 秋らしい曇りの一日。高い雲の空と乾いた秋の空気。

 時間がなくて前の方のブログを頻繁には読み返していない。この前書いたように何人からかコメントが来ていることがわかったので、さかのぼって読んでみた。そうしたら、そのうちの一人は中学校の同級生の横O君からだった。

 美術館が始まると休日がすっかり変わる。何しろ就職して社会の中で働きはじめて以来ずうっと美術館だから、土日出勤月曜休みというパターンに戻ると基本に戻ったようで何か落ち着く。とはいえ、今回のように先週の月曜に開館の記念式があって次の月曜が祝日だと、ずうっと出ずっぱりで今日やっと休み。午前中、思う存分食器洗いと洗濯と掃除拭き掃除。明美さんも、僕が始めると部屋から出て来て様々手伝ってくれる。だから、一人でいるときにそれをしていてくれると、僕は休みの日に休めるのだがなあ。それから、手伝う時は邪魔になんないようにお願いね。というようにやるので、思う存分といっても、ま、適当に四角い部屋を丸く掃く。
 昼までに切り上げ、明美さんと一緒にカングーで出かけて、今昔庵(岩沼西部丘の麓の農家レストラン)でふろふき大根中心の五穀米昼食。最初今が旬のハラコ飯をと思って鳥ノ海の浜寿司(いつもハラコ飯はここで食べる)に電話したのだが、火曜日は定休日なのだった。
 食後、一緒に貞山堀の東北大漕艇部合宿所というのを探しに行く。仙台空港のそばに見つけるも、ううむ、ここからこぎ出すのかという場所だったので、少しがっかりして帰宅。煙草を飲みたくて我慢できなくなって来た明美さんをおろしてカヌーを屋根に縛り付け、いつもの阿武隈川に行く。貞山堀で漕げないかと思っていたのだ。一人でやるには乗り出しがちょっと面倒そうだった。もう少し水が多い時期にもう一度来てみよう。いつもの阿武隈川だったが、いつもよりだいぶ上流まで漕ぎ上がり、ユックリ下る。水の上から見える空を何枚か写真で撮った。ゆっくり夕食の用意をしてジャガイモの煮たのと豆腐を大根と油揚げのみそ汁で食う。今、ダライラマの声明を聞きながらこれを書いている。いい感じの一日だったんではないだろうか。
 横O君は、中学校の時の友達で、そんなに親しくはなかったけれど名前を聞けばすぐ顔を思い出せるぐらいには話をしていた。今介護の仕事をやっているという。最初、中学校の時の印象とはだいぶ違った仕事をしているように思えたけれど、ふと時間を止めて、彼の顔を丁寧に思い出してみると、中学校の頃から丁寧に人との付き合いをする人で、そうか、案外ちゃんとなるべくしてそうなっているのかもしれないなあと思った。横O君、手紙をありがとう。古い友人が介護の専門家になっていて、その上で今の僕の状況を肯定的に褒められると、すごく安心するよ。僕のおかみさんの明美さんって、あなたも知っている同級生のK生明美さんで、長い付き合いの末大学を卒業したあたりに結婚した。彼女の調子が悪くなってからも、家族の中に普通とは違う調子でしか動けない人がいると、むしろより善い生活が出来るようだと思いながらここまできた。5年前に脳内出血で倒れて幸運にも復帰できて以来、生きている実感はすごく濃くなって僕の近くにいる。生きられる所までは一生懸命生きるが、でも、人はわりと簡単に死ぬ時は死ぬ。そんな感じの毎日だ。古い友人から手紙が来て様々な覚悟の確認が起こる。
 

2008年 10月 6日 秋の雨。明るく厚い灰色の雲から細いがしっかりした糸のような雨が降る。

明日は美術館再開館の日だ。今日午後3時からウイーン美術史美術館展の開会式があって、それが再開館の式典もかねる。どうしようもない状況が続いていても、とにかくジッと待っていると時間は過ぎていって、いつのまにか次の状況が始まる。これって、結構凄いことなのではないか。

 6日は月曜日で本来休みの日だが、今日は(服装は相変わらずのちゃらんぽらんだが)ネクタイをして、式に出席するため朝から出勤。始まると、ウイーン展が今年いっぱい、来年初めからファイニンガーという人(みんなこの人知ってるの?)の展覧会が年度末までと続く。この10ヶ月に及ぶ長い休館に入る前は、日本彫刻の100年展と、日展の100年という展覧会で、これらを継続してみると、凄く面白く人間の近代をとらえることができるのだけれど、誰も気付いていないだろうなあ。ちょっと残念だ。
 西洋のと断るまでもなく、美術の歴史は、自我の認識の歴史だと考えるとわかりやすい。ごく小さい子供の頃、私達は、「お母さんの子供」だった。お母さんの範囲内に世界はあり、お母さんの自我が自分の自我と分かちがたくあった。お母さんを神様に置き換えると、それは世界の話になる。お母さんから自立することが今思えば結構大変だったように、神様の世界から一人で抜け出すには、人間は、それを自覚してからでさえ、何百年もかかった。そのあたりのつじつまが着くと近代が全体として始まる。神様って本当にいるの?なんて誰かが言い始め、相当勇気を奮って、一人で踏み出してみようかなと言うあたりの絵が、今回来たウイーンからの静物画の世界展だと理解すると、視点は一気に広がる。見えるモノを見えたとおりに絵に描いてしまうというのは、写真機ができるまでは結構物理的にも大変な作業だったのだ。そして20世紀、写真機が一般化して、私達は、見たとおり描くことから解放される。で、初めて、私は何を描いていたのかが問われる。何を描きたいのかが問われる。ファイニンガーはそのあたりにいる。僕は1951年に生まれて、2030年代を見られるだろうか?彼は1871年に生まれて1952年に死ぬ。世紀を跨がることにかけては、僕も彼も同じなのだ。二つの世紀に跨がって、生きることを自覚して彼の絵を見ると、何か見えてくるに違いない。
 なんていうようなことをつい考えてしまうような展覧会が続いている。宮城県美術館は、なかなかやっているのではないか。自画自賛。
 このブログには、手紙を書くことが出来て、それらは、すべて、ちゃんと僕の所に届いています。でも、書かれてすぐ僕が読めるようになっていないのです。齋正弘の検索でブログが見つかるようになると、あっという間に、世界中からスパムメールが届き始めます。連休などで2、3日メールをのぞいていないと、それは、すぐ300通とかを超えてしまい、私書箱がパンクしてしまうので、途中でいっぺん、ふるいがかかるようになっているのです。そのため、個人的なメールは届くのですが、一拍時間がずれる。感想やお話は、ここではなくて、僕個人のメールアドレスに直接書いてください。そしてすまぬ、個人のメールアドレスは、僕に直接電話して聞いてください。